サイパン島極秘作戦 決死の胴体着陸、飛び出した兵士が自転車でB29に爆弾仕掛け…特攻覚悟、一式陸攻パイロットの証言(下)

銀幕裏の声
南洋の海に沈んだ一式陸上攻撃機=2005年、ミクロネシア連邦・チューク州のトラック諸島(水深18メートル)で(頼光和弘撮影)

 第二次世界大戦屈指の日米の激戦地となった硫黄島が昭和20年3月、遂に米軍の手に落ちる。硫黄島で戦う日本軍の兵士あてに書かれた家族からの手紙を命がけで運んでいた元海軍一式陸上攻撃機(一式陸攻)のパイロット、田中修さん(94)は、輸送基地のあった千葉・木更津から青森・三沢基地へと転戦する。ここで田中さんは一式陸攻の機長として極秘の訓練に参加することになる。それは攻撃機だけによる特攻作戦だった。田中さんは淡々とその作戦について教えてくれたが、その内容はあまりにも壮絶だった。(戸津井康之)

片道燃料の胴体着陸

 硫黄島が陥落した。それまで硫黄島への物資輸送を担当していた一式陸攻機長の田中さんの任務は、東京湾での敵機動艦隊の哨戒活動に変わっていた。

 20年6月、田中さんは中尉に任官。そして7月、所属していた航空隊は三沢基地へと転戦する。極秘の特攻作戦の練習を行うためだった。

 第二次世界大戦末期、日本全土が米軍の爆撃機B29の空襲の脅威にさらされていた。なんとかこれを阻止しようと、日本軍はサイパン島のB29の基地を攻撃する作戦を極秘に計画していた。

 その作戦名は「剣号作戦(剣作戦)」。

 作戦内容の概要はこうだ。夜間、一式陸攻に海軍陸戦隊の兵士を乗せ、サイパン島に強行着陸。機体から飛び出した兵士たちがB29に吸着爆雷を付け、爆破するという計画だった。

 「私が機長だった一式陸攻は8人乗りでしたが、最小限の搭乗員だけが乗り込み操縦。残りのスペースに、吸着爆雷を抱えた陸戦隊の兵士約10人を乗せるのです。自転車と一緒に…」

 いったい何のために自転車を? 田中さんは驚くべき特攻作戦を語り始めた。

 「一式陸攻でサイパン島の基地に強行着陸後、陸戦隊兵士は自転車に乗って一式陸攻から飛び出し、B29に向かって走り、吸盤ゴムが付いた吸着爆雷を機体に張り付けて爆破するのです。そのための夜間訓練を三沢基地で私たちは行っていたのです」

 三沢には、サイパンの米軍基地が再現され、木製のB29の模型も作られていたという。

「遺書は必要なし」

 サイパン島への飛行距離は約2400キロ。味方の戦闘機の護衛なしで、積載重量限界の重い一式陸攻を操縦し、さらに敵戦闘機や艦砲射撃などの攻撃を避けながら、基地の滑走路へ近づかなければならない。

 「一式陸攻にとってぎりぎりの片道燃料。B29の駐機する敵基地上空では速度を落とせないため車輪は使わず、胴体着陸で強行着陸するしかありません。着陸と同時に自転車に乗った陸戦隊兵士を降ろす…。こんな無謀な計画が果たして成功するのだろうか」

 危険な硫黄島への物資輸送を行ってきた歴戦のパイロット、田中さんでもこう危惧したという。

 剣号作戦の決行は7月中旬に予定されていたが、敵機の空襲により延期された。そして、田中さんに下された次の出撃命令は8月19日に決まった。

 特攻命令が出た後、田中さんは覚悟を固め、淡々と過ごしていたという。

 「多くの隊員が遺書を書いていましたが、私は一行も書きませんでした。特に書く気になりませんでしたから」

 訓練飛行中に墜落する一式陸攻も少なくなかったという。常に死が隣り合わせの生活を過ごしてきた田中さんにとって、すべてを運命だと受け入れていたのだ。「私は独身だったので未練などなかったのかもしれませんね」と静かに笑った。

衰えを知らぬパイロット魂

 そして8月15日に終戦。

このとき、「これで命だけは助かったのかなと思いました」と田中さんはやはり淡々とした表情で振り返った。

 田中さんのいとこ11人が出兵し、内9人が戦死している。「2人だけが生き残って故郷へ帰ったのです」。田中さんは戦後、母の待つ滋賀県へと帰還した。

 取材のため、待ち合わせ場所のJR南草津駅へ。ロータリーの前で待っていると、一台の乗用車がやってきた。ハンドルを握っていたのが田中さんだと分かり驚いた。

 間もなく95歳になる田中さんはこちらの驚いた表情を見ると笑顔を浮かべながら、「大丈夫ですよ。安全運転ですから安心してくださいね」。きびきびと運転する、その横顔に戦火をくぐり抜けてきた歴戦の攻撃機パイロットの凄みがただよっていた。 =おわり