硫黄島へ護衛なき物資輸送 敵機かわしたつもりが 主翼に複数の弾丸…特攻覚悟、一式陸攻パイロットの証言(中)

銀幕裏の声
一式陸攻機長だった田中修さん。昭和20年、海軍中尉の頃(田中さん提供)

 第二次世界大戦中、日米の激戦地、硫黄島で戦う日本軍の兵士あてに書かれた家族からの手紙を命がけで運んでいたパイロットたちがいた。元海軍一式陸上攻撃機(一式陸攻)のパイロット、田中修さん(94)は、昭和19年7月から十数回にわたり、千葉・木更津の海軍航空基地から硫黄島までの往復輸送の飛行を敢行。多くの一式陸攻が敵戦闘機に撃墜されるなか、卓越した操縦技術で敵機の追尾をかいくぐり、物資を届け続けた。「硫黄島への輸送の際、護衛の戦闘機? 一機もつきませんでした。いつも単独飛行でしたよ」と田中さんは豪快に笑い、当時を振り返った。(戸津井康之)

護衛なき単独飛行

 「もうすぐ硫黄島が見えてくる」という直前、田中さんが操縦する一式陸攻の後方に米戦闘機P38ライトニングの機影数機が見えた。

 通常であれば、戦地へ物資を運ぶ攻撃機などには護衛の戦闘機が付くが、当時の日本軍には護衛機をつけるだけの余裕もなかった。硫黄島へ物資を届けていた田中さんの一式陸攻は単独飛行が多かったという。

 待ち伏せしていたP38は執拗に追尾してきた。だが、田中さんはあせることなく冷静に操縦に徹した。

 「追ってくる敵戦闘機の機首の向きさえ把握していれば、撃ち落とされる心配はない。そう確信していましたから」と田中さんは豪語し、その操縦方法について臨場感豊かに説明してくれた。

 「戦闘機の銃弾は真っすぐにしか飛びません。だから敵機の機首が向いている方向から、こちらの機体をスライドさせるようにして飛べば、銃弾の軌道からそらすことができ、弾は絶対に当たらないのです」

 田中さんは海面に向けて高度を下げながら速度をかせぎ、同時に機体を左右にスライドさせて、P38の追撃を振り切り、硫黄島の滑走路に着陸した。

 しかし、機体から降りた直後、冷や汗が出る思いをしたこともある。

 「銃弾をすべて回避したつもりだったのに、硫黄島の基地に降り立った後、『主翼にいくつも穴があいています!』と整備兵に何度か指摘されましてね。敵機の弾丸の跡でした」と田中さんは、また豪快に笑い飛ばした。だが、もし、被弾した場所がわずかにずれて燃料タンクに引火していたら、機体は空中で爆発していたかもしれないのだ。

因縁の対決

 田中さんが操縦していた旧日本海軍の一式陸攻、そして何度も追尾されたという米戦闘機P38には深い因縁がある。

 昭和18年4月、ラバウル基地からブーゲンビル島へ向かった山本五十六・連合艦隊司令長官の搭乗機が途中、待ち伏せしていた米軍戦闘機に撃墜され、山本長官は戦死する。

 このとき山本長官が乗っていた機体が一式陸攻で、撃墜した米戦闘機がP38だった。

 一式陸攻には零戦の護衛も付いていたが、米軍は日本軍の暗号を解読し、この日の山本長官の飛行経路はすべて把握されていた。

 当時、一式陸攻には不名誉なあだ名がつけられていた。

 米軍のパイロットたちは、防弾装備が弱く、被弾すればすぐに火を噴く一式陸攻のことを、「ワンショット・ライター」と呼んでいたという。

 田中さんは一式陸攻に手紙や物資などを積み、木更津の航空基地から硫黄島まで約1200キロの距離を護衛戦闘機なしで往復し続けた。

 硫黄島に到着後、主翼などに弾丸の穴が複数開いていたことがあった、と田中さんは笑顔でこともなげに語ったが、実は死と隣り合わせのぎりぎりの飛行を続けていたのだ。

最後の命令“特攻”

 第二次世界大戦末期、米軍は日本軍から硫黄島を奪うために猛攻を仕掛ける。B29爆撃機が無給油で日本本土を空襲することができる戦略爆撃の拠点基地とするためだ。逆に日本軍は米軍の戦略爆撃計画を阻止するため、“最後の砦”として硫黄島を死守しようと、島中にアリの巣のような塹壕を掘って張り巡らせ、決戦に備えていた。

 「硫黄島に泊まるとき、この塹壕の中で眠るのですが、暑くてよく眠れませんでしたね」と田中さんは苦笑した。

 昭和20年3月、第二次世界大戦屈指の激戦となった「硫黄島の戦い」は終わり、遂に島は米軍の手に落ちる。

 「硫黄島の戦いが激化する直前、一式陸攻による物資輸送はできなくなりました」と田中さんは振り返る。

 劣勢に追い込まれた日本軍は“最後の手段”を計画していた。特攻作戦だ。零戦など空中戦にたけた戦闘機だけでなく、攻撃機もその対象とされた。そして、一式陸攻機長の田中さんにも遂に特攻命令が下される日がやってくる。

                            =(下)へつづく