家族の手紙届けるため硫黄島へ決死の飛行 敵機と遭遇、機体スライドさせ弾丸避け…特攻覚悟、一式陸攻パイロットの証言(上)

銀幕裏の声
高高度を飛ぶ一式陸上攻撃機。終戦まで海軍の主力攻撃機として使用された

 第二次世界大戦下、日米の激戦地となった硫黄島。この島を舞台にハリウッドの巨匠、クリント・イーストウッド監督は米側の視点から「父親たちの星条旗」を、日本側の視点から「硫黄島からの手紙」の映画2本を撮った。「硫黄島~」は栗林忠道陸軍中将が東京の家族との手紙の絆をテーマにした作品。だが、手紙がどうやって島へ届けられていたかは詳しく描かれていない。その手紙を決死の飛行で届けていたのが、元海軍一式陸上攻撃機(一式陸攻)パイロット、田中修さん=滋賀県草津市在住=だ。硫黄島へ向かった多くの一式陸攻が撃墜される中、戦火をくぐり抜け生き残った田中さんの最後の任務は特攻だった。「仲間の死を決してむだにしてはいけない」。戦後72年目の夏、田中さんは初めて取材に応じ、平和の尊さを訴えるとともに、壮絶な特攻計画を明かした。(戸津井康之)

硫黄島への決死の飛行

 「私のパイロットとしての最初の任務ですか? 硫黄島へ赴任する士官を乗せ、兵士宛の家族たちの手紙や物資を積んで空輸すること。島に着くと、今度は本土へ帰還する士官を乗せ、兵士から家族あての手紙を積んで基地へ戻ることでした」

 戦後72年を迎えた夏。滋賀県草津市で暮らす94歳の田中さんは静かに語り始めた。

 昭和19(1944)年7月、一式陸攻のパイロットとして千葉・木更津の航空隊に赴任した。翌年初めにかけて、同基地と硫黄島間を計十数回往復したという。

 硫黄島は現在の東京都小笠原村に属す。東京都中心部から南方へ約1200キロ離れた小笠原諸島の南端に位置する東西8キロ、南北4キロの小さな島。

 戦時中、南洋の戦場の拠点として旧日本海軍、陸軍ともに基地を構えていた。日米決戦時の海軍の司令官は市丸利之助少将。そして陸軍の司令官は栗林忠道中将。映画「硫黄島からの手紙」の主人公は栗林中将で、俳優の渡辺謙が演じていた。市丸、栗林ともに「硫黄島の戦い」で戦死している。

 「島のみんなが手紙を待っていた。撃ち落とされるわけにはいきませんでした」。海軍のパイロットとして島へ手紙など物資を輸送していた田中さんはこう振り返る。

 この海軍側の手紙の空輸を描いたテレビドラマ「硫黄島~戦場の郵便配達~」(フジテレビ系)が平成18(2006)年に放送されている。実在した一式陸攻の根本正良機長を俳優の伊藤淳史が、市丸少将を藤竜也が演じた。実は田中さんと根本さんは、ともに第十三期海軍飛行予備学生出身だ。

若き機長

 田中さんは大正11年、京都市で生まれ、大津市坂本で育った。同市内の旧制中学を卒業後、同志社高等商業学校(現同志社大商学部)へ進み、在学中の昭和18年、第十三期海軍飛行予備学生に志願し、海軍へ入隊。三重県の三重海軍航空隊、鹿児島県の鹿屋海軍航空隊などで操縦士となるための厳しい訓練を受ける。

 「赤とんぼ」と呼ばれた九三式中間練習機や九十六式陸上攻撃機などを使った操縦訓練を経て、一式陸攻のパイロットになった田中さんは19年7月、木更津基地へ赴任。一式陸攻の若き機長として、硫黄島への物資輸送などの任務に就いた。

 一式陸攻は搭乗員8人(7人乗りの場合もあった)で任務に就く。

 「私が機長(正操縦士)で、副操縦士と偵察士2人、通信士が2人。搭乗整備士1人に射撃手1人の計8人。戦争の後半はずっと同じ搭乗員でチームを組んでいました。当時、機長の私が22、23歳で、下は17、18歳。みんな20歳前後の若者たちでした」

 田中さんが当時の写真を手に取り、見せてくれた。

 パイロットスーツの装備を身に着けた若き日の田中さん。静かに微笑むその表情は、青年というより、まだ少年の面影をたたえていた。

米戦闘機の追尾を振り切れ!

 ドラマでも描かれていたが、硫黄島へ向かった一式陸攻の多くが、米戦闘機の銃撃や米艦隊の艦砲射撃により撃墜されている。

 約1200キロ離れた硫黄島への飛行時間は一式陸攻で約4時間半。田中さんは何度も米軍機と遭遇し、危険な状況に陥ったという。

 「現在のようなレーダー技術には頼れません。だから敵の戦闘機に見つかる前に、いかにして先に敵機を発見するかが重要でした」と田中さんは言う。

 だが、敵戦闘機のパイロットも先に日本軍機を見つけ出そうと必死だ。

 「島が近づいてきたころ、米戦闘機P38ライトニング数機と遭遇。すぐにP38は追尾してきました。私は海面に向かって下降し速度を上げ、機体をスライドさせながら敵機の機銃の弾丸をよけました」

 田中さんは、こともなげにP38の機銃の弾丸をかわしたかのように語ったが、卓越した操縦技術があったからこそ、一度も撃墜されることなく、何度も硫黄島への物資輸送という危険な任務を遂行できたかが理解できる。

 田中さんが操縦していた一式陸攻の最高速度は約450キロ。一方、空中戦で戦うために開発された戦闘機P38の最高速度は670キロ。8人乗りで機体も重い一式陸攻が、単座で機動性能の優れたP38の追尾を振り切ることは実は至難の技だったのだ。

     =【銀幕裏の声】元海軍中尉の証言(中)は、8月9日の予定