革命闘争「荒れる法廷」には甘い顔 日弁連がさらした弁護士自治の無力…過激派側弁護士を〝野放し〟

弁護士会 矛盾の痕跡(4)
東大安田講堂事件、さらに連合赤軍事件、連続企業爆破事件…。社会を揺るがせた不法な反権力闘争は法廷に持ち込まれ、裁判遅延を目的に不出頭、退廷を繰り返す「荒れる法廷」が横行した。日本弁護士連合会の「弁護士自治」の無力さを社会にさらすことにも―

 約半世紀前、「革命」の名の下に不法な反権力闘争が跋扈(ばっこ)した時代があった。

 彼らの闘争は法廷にも持ち込まれた。裁判遅延を目的に不出頭、退廷を繰り返す「荒れる法廷」。これを主導した弁護士に対し、弁護士自治を掲げる日本弁護士連合会(日弁連)はどう向き合ったのか。

「裁判史上の汚点」

 「これは裁判史上の汚点になる」。昭和44(1969)年、東京地裁。事態に直面した少なからぬ裁判官がそう痛感した。

 70年安保闘争を背景に、学生らがキャンパスを占拠した東大安田講堂事件。機動隊と衝突し、起訴された学生の数は実に約600人に及んだ。大量の学生被告の裁判について東大闘争弁護団が要求したのは、全員を一カ所に集めて審理する「統一公判」だった。

 「学生たちがなぜこんな行動をしたのか。根本を明らかにしない限りは裁判にならないと考えた」。弁護団のメンバーだった葉山岳夫(80)=第二東京弁護士会=は振り返る。

 だが、東京地裁は「裁判官の認識能力の限界を超える」として統一公判を受け入れず、被告を大学やセクトごとのグループに分ける現実的な方式をとった。

 44年5月から順次、始まった公判。刑務所や拘置所では被告が「分割公判粉砕!」を叫び、全裸になって便器にしがみつき、出廷を拒んだ。出廷しても傍聴人と呼応し、やじやシュプレヒコールを連発した。

 裁判長から退廷命令を受けた被告、傍聴人らは数百人規模に達した。弁護団も「統一公判実現」を繰り返し、裁判官忌避を申し立てて集団退廷もした。

 業を煮やした地裁は「伝家の宝刀」を抜く。刑事訴訟法286条の2。被告が正当な理由なく出頭を拒否し、看守らも連れ出せないときは本人不在で公判を進めることができる。欠席裁判を可能にする異例の規定が東大事件で多用された。

日弁連「自発的善処を切望する」

 司法の異常事態に、地裁判事だった礒辺衛(まもる)は法律雑誌「ジュリスト」(有斐閣)でこう論陣を張った。「裁判史上東大事件弁護団ほど実のある弁護活動(実質的な主張立証)を全く何もしなかったものはない。空前にして絶後であろう」

 日弁連も44年9月、ついに阿部甚吉会長名の談話を発表せざるを得なかった。

 《弁護人諸君、諸君の行動は在野法曹全体の信用にもかかわるものである。(中略)諸君の速やかなる自発的善処を切望する》

 東大弁護団は「日弁連が最高裁の圧力に屈した」(葉山)と意に介さなかったが、同時に、会員の懲戒権を有するはずの日弁連の弁護士自治の無力さもまた、世間にさらした。

 葉山によれば、後に日弁連は、裁判長から退廷命令を連発された弁護士に対しては業務停止などとした。ただ東大事件以降、連合赤軍事件や連続企業爆破事件などの過激派裁判でも同じような闘争が繰り返されながら、過激派側の弁護士はほぼ〝野放し〟だった。

 やむなく法務省は53年、過激派裁判の正常化に向け弁護人抜きでも審理が進められる「弁護人抜き特例法案」を上程する。当時の最高裁長官は初の検察官出身の岡原昌男。法案に賛意を示し、「日弁連は問題のあった弁護士の懲戒問題もウヤムヤにしている」と異例の発言で波紋を広げた(講談社プラスアルファ文庫「最高裁物語」)。

自浄能力の欠如

 日弁連は過激派側の弁護士に甘い顔を見せながら、最高裁長官の発言には強く反発し、法案阻止運動を展開した。同5月の臨時総会では「憲法が保障する被告人の弁護人依頼権を侵す」「裁判所の強権的な訴訟指揮の傾向に対し反省を求める」などとする決議を採択、闘争姿勢を強めた。

 54年、法案は廃案となる。その代わりに、日弁連は最高裁、法務省との法曹三者協議で、懲戒処分の運用改善や国選弁護人の推薦などを決定した。本来なら異例の法案が出る前に懲戒権を機能させるべき局面だった-との指摘は多い。

 「荒れる法廷」を通じて日弁連が露呈した自浄能力の欠如。人権・平和を掲げた左傾的闘争に異を唱える会員を顧みない今の独善的体質と、どこか重なる。(敬称略)

 【用語解説】東大安田講堂事件 昭和45(1970)年の日米安保条約延長に反対する70年安保闘争を背景に、ベトナム反戦などを掲げ、全国の大学に波及した「全学共闘会議(全共闘)」運動の象徴的な事件。44年1月18日、東京大本郷キャンパスの安田講堂に籠城(ろうじょう)した全共闘や新左翼の学生を排除しようと警視庁機動隊員が突入。火炎瓶などで抵抗する学生に対し放水、催涙ガスで応戦した。2日間の攻防の末、約630人の学生が逮捕された。