「アシカ絶滅は日本のせい」は捏造…韓国の定説に韓国紙が異議、乱獲し精力剤にしたのは自国だ 下條正男・拓殖大教授

竹島を考える
竹島で営まれていたアシカ猟の様子を撮影した写真(昭和10年撮影、島根県竹島資料室提供)

 竹島は、1905年2月22日、「島根県告示第40号」により島根県隠岐島司の所管に入った。それは、竹島でアシカ猟をするため、島根県周吉(すき)郡西郷町(現隠岐の島町)の漁業者、中井養三郎が、島の貸し下げを明治政府に求めたことに始まり、明治政府は同年1月28日の閣議決定で、“無主の地”だった無人島を「竹島」と命名して日本領に編入し、冒頭の島根県告示に至った。竹島とアシカには、そのはじめから浅からぬ因縁があったのだ。

韓国の“定説”に異を唱えた韓国紙

 近年、韓国側ではその竹島(独島)のアシカに関心が集まっている。

 日本の内閣官房領土・主権対策企画調整室が2014年12月、隠岐の漁師と竹島のアシカとの関わりを描いた絵本「メチのいた島」の読み聞かせ動画を公開した。これに、韓国側が対抗して竹島にアシカ像を置こうとしたが実現せず、翌年8月になって竹島の船着場近くにアシカのレリーフを設置した。

 韓国側には、「独島(竹島)のアシカを絶滅させたのは日本人だ」とする“歴史認識”が根強く、レリーフはその広告塔として利用するのが狙いだ。

 ところが、その認識を覆す記事が6月13日、韓国の慶尚毎日新聞(ネット版)に掲載された。同紙のチョウ・ヨンナム記者がさまざまな証言を集め、日本人が竹島のアシカを絶滅させたとする“定説”に異を唱えたのだ。

「アシカ滅亡は日本のせい」と主張する韓国

 チョウ記者は、1950年代半ば、竹島に上陸していた独島義勇守備隊の複数の隊員から「当時、アシカは最小限700頭余りが生きていた」との証言を得ている。これは1960年代も同様で、竹島に駐在した海洋警察隊員と漁民が「数百頭が棲息(せいそく)していた」と証言している。

 1970年代初頭も変わりがなかった。工事のため竹島に渡った韓国・欝陵(うつりょう)島の住民が「当時、数百頭が生きていた」と証言しているからだ。1970年代の初めまで、竹島にはアシカが生存していたのである。

 しかし、竹島問題と関連してアシカが論じられると状況が違ってくる。

 島根県竹島問題研究会が2014年に刊行した『竹島問題100問100答』では、韓国の不法占拠時(1954年)には200~500頭のアシカが竹島に生息していたが、1970年代半ばを最後に目撃情報が途絶え、2010年に「韓国政府が絶滅宣言を行う」との報道がなされたことなどを指摘した。

 これに対し、韓国の慶尚北道独島史料研究会は「韓国ではアシカの油は採取せず、皮も使わないので、独島のアシカを滅亡させたのは日本だ」と反論したのだ。

機関砲で撃ち、イカ漁のため追い払う

 だが、この反論は事実と違う。チョウ記者は、竹島のアシカが絶滅した背景について、「アシカの『海狗腎(かいくじん)』(生殖器)と肉を得るためで、独島を警備していた隊員が(アシカを狙って)独島の東島頂上から機関砲を撃ち、射撃訓練をしていた」とした。

 さらに、隊員の中には、「海狗腎を政府の高官や軍の上層部に上納していた」と証言する者もいたという。

 また、竹島周辺では韓国によるイカ漁などの漁業が盛んになり、集魚灯近くにアシカが出現すると魚が逃げるため、漁師らが追い払ったという。

 このように竹島に群棲していたアシカは、韓国側が乱獲したことに加え、漁師によって棲息地から追い出され、その繁殖地を失って絶滅した-というのが史実に近い。

多様な用途あったアシカ

 慶尚北道独島史料研究会は「韓国ではアシカの油は採取せず」とするが、それも事実ではない。

 明治の探検家、松浦武四郎の『竹島雑誌』(1871年刊)では、「朝鮮人これを猟せば/油を得る」としている。アシカには、さまざまな用途があった。

 それを示しているのが、2012年8月19日付『中央日報』である。同紙は、「独島守備隊が武器を調達する際、釜山のヤンキー市場に行き、アシカ1頭と引き換えに拳銃と小銃を取得した」と報じている。これは、アシカが売れることを知っていたからだ。

 チョウ記者によると、1960年代、警察署長の求めに応じ、欝陵島の金某氏がアシカ1頭を捕獲すると、お礼に「麦を2叺(かます)(1叺=76・5キロ)ももらった」という。この警察署長が求めていたのはアシカの海狗腎で、朝鮮半島ではアシカの生殖器を滋養強壮剤としていたからである。

新羅時代にも存在したアシカ猟

 アシカ猟の歴史は古い。朝鮮時代の医師・許浚(ホ・ジュン)が著した『東医宝鑑』(1610年成立)では、「新羅国、海狗の外腎(がいじん)なり」として、新羅時代にも存在したとしている。

 『東医宝鑑』の「湯液篇」では、アシカを「膃肭臍(オットセイ)」と表記し、明代の医師・李時珍の『本草綱目』(1578年成立)では「膃肭臍」の一名として「海狗腎」を挙げ、「膃肭獣」を「海狗」としている。

 アシカの生殖器が海狗腎とされたのは、海狗の「腎(性器)」だったからである。

 『東医宝鑑』では、膃肭臍の棲息地として江原道の平海郡を挙げ、膃肭臍は「甚だ貴く得難し」としている。そのため、『世宗実録・地理志』(15世紀成立)の「平海郡」条では、膃肭臍を「薬材」に分類したのである。『新増東国輿地勝覧』(16世紀成立)になると、平海郡の「膃肭臍」は「海獺(うみうそ、アシカ)」とされている。当時、アシカは膃肭臍だけでなく、「海狗」とも「海獺」とも呼ばれていた。

アシカ絶滅の経緯が史実究明につながる?

 だが、朝鮮時代のアシカの棲息地は、平海郡や江戸時代に鳥取藩米子の大谷・村川両家がアシカ猟をした欝陵島だけではなかった。

 『秋江先生文集』(「遊金剛山記」)によると、朝鮮時代の文臣・南孝温は、杆城郡の清澗駅近くや襄陽の海辺でも海獺の群鳴に遭遇している。そのアシカもまた、時代とともに姿を消していった。

 1976年8月、韓国・梨花女子大学の調査チームが竹島で調査した際に、アシカの生息が確認された。その時、韓国内ではアシカの保護が叫ばれたが、実現しなかった。

 ここでチョウ記者が伝えたかったのは、「竹島のアシカを絶滅させたのは日本だ」とする虚偽の歴史を捏造(ねつぞう)し、日本を非難すれば、国際社会から韓国は「嘘つき」の烙印(らくいん)を押されてしまう。それでは竹島の領有権を争う際に、不利になる、ということだった。

 だが竹島のアシカが絶滅した事実を究明していけば、やがて竹島を韓国領とする「歴史認識」についても、史実を究明しなければならない時が来る。チョウ記者は言外にそう語っているのかもしれない。