冷たい戦いを超えて(17)冷戦崩壊の足音が聞こえ始めた

オリンピズム
ロス五輪体操女子で活躍したルーマニアのエカテリーナ・サボーの床運動=1984年8月(UPI=共同)

 東側陣営が逆にボイコットしたロサンゼルス五輪。「出場していたら、どんな活躍をしただろうか」。米国のジョーン・ベノイトが圧勝した女子マラソンで、当時の“オリンピアン”に、そう思わせる東欧の選手がいた。

 ロス五輪前の大阪女子マラソン(現大阪国際女子マラソン)に出場し、初優勝した東ドイツのカトリン・ドーレ。日本でもよく知られ、そのままロス五輪に出場すると思われていた。4年後のソウル五輪では銅メダルを獲得している。

 その走りをいまも思い描くのは、ソ連の決定に反して東欧から唯一、参加したルーマニアがロス五輪で大活躍したからでもある。体操女子の3種目で金メダルを獲得したエカテリーナ・サボーらの奮闘で、金メダル20個を含むメダル53個を獲得した。米国の174個には遠く及ばないものの、それに次ぐ成績だった。

 ルーマニアはいかにしてロス五輪に参加したのか。「独自の判断で決めた。『選手団の安全』にも問題はない。1924年のパリ五輪から途切れることなく参加し、五輪精神を尊重してきた」。ルーマニアのオリンピック委員会はロス五輪直前の会見で、ソ連を刺激したくないのか、言葉を選びながらこう話した。

 ロス五輪での好成績はソ連や東ドイツの東側強豪国が不在だったためであることは否めない。重要なのは、ソ連の決定に反してでも参加したことである。その要因は東西関係の変化にみてとれる。

 ソ連軍のアフガニスタン侵攻から80年代に入り冷戦は新たな展開を迎えた。米ソ関係はどん底に陥る一方、ソ連の指導体制はレオニード・ブレジネフ以降、不安定となり、東欧はソ連の体制を揺るがし始める。当時の産経新聞はこう見通していた。

 《ソ連・東欧関係は、東西接触に最も消極的なソ連とチェコを一つの軸に、その反対側に積極的な東西交流を唱えるハンガリーをおく形ができあがっている。この両国の間に、ハンガリーに近い方からルーマニア、東ドイツ、ブルガリア、ポーランドと並び、両グループの間に、しばしば非難と反論の応酬が繰り返されている。いわばソ連と東欧の間に微妙な「異議申し立て」と亀裂が生まれはじめており、その「一枚岩」的な団結の回復が、ソ連の対東欧政策の要ともなっている》

 ソ連はロス五輪ボイコットを通じて“団結の回復”を期待したことだろう。しかし、それはルーマニアからほころびた。その次に西側に近いとみられた東ドイツにもその可能性はあったのではないか。

 当時、分断された欧州では、東欧から国境を越えて西ドイツ南東部のバイエルン州へ脱出し、西側に亡命する事件が相次いだ。地雷を敷きつめた国境地帯を通過して脱出した東ドイツ人もいた。そうしたスパイ小説さながらの出来事がロス五輪報道の脇で伝えられている。

 ベルリンの壁が崩壊するまであと5年。冷戦崩壊の足音は、ロス五輪で見せたソ連の“誤算”からすでに聞こえ始めていた。 =敬称略 (蔭山実)