PR

スポーツ スポーツ

【勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一】(199)クマさん哀歌㊦ 阪神愛で再登板…再建できず辞任

暗い阪神ベンチ。右から田淵、後藤監督、渡辺投手コーチ=昭和53年、甲子園球場
暗い阪神ベンチ。右から田淵、後藤監督、渡辺投手コーチ=昭和53年、甲子園球場

 「絶対に受けたらアカンよ」

 これが当時のトラ番記者たちの〝総意〟だった。吉田義男監督の退団後、後任監督問題で窮した阪神球団は後藤次男に助けを求めた。

 記者たちは憤慨した。

 <8年前、理不尽な扱いでクビを切っておきながら、今度は誰もなり手がいないから助けてくれだと? そんな虫のいい話があってたまるか。人のいいクマさんにつけ込むのもいい加減にしろ!>

 西宮市甲子園三保町の後藤宅には毎日のように記者が訪ねて押しとどめた。サンケイスポーツでは法大野球部の後輩、平本渉記者が説得にあたった。

 「先輩、絶対に受けたらアカンよ。昔とは野球の形も変わったし、阪神の戦力は落ちてる。苦労するのは目に見えてる。それに、先輩のようにフロントや選手に気を使い過ぎる人は阪神の監督には向いてない。体を壊すよ」

 「わかっとる。わかっとる。女房も今度ばっかりは〝やめときなさい〟と言うとるしな」

 だが、クマさんは受けた。長田陸夫球団社長に「もう、アンタしかおらんのや。タイガースを助けたってくれ」と何度も頭を地べたに擦り付けられ「断り切れんかった」という。

 「みんなの言うこともよう分かる。ありがとうな。けど、ワシはタイガースを愛しとるんや」

 予想通り昭和53年シーズンは悲惨だった。開幕の巨人戦に連敗しいきなり1勝6敗スタート。チームの不振を気遣うあまり喜美子夫人が病気で倒れた。

 「女房は大丈夫。それよりチームや」。そんなクマさんを記者たちも懸命に応援したのである。

 「辞める決意は早ようからしていたよ。選手は懸命にやった。けど、この成績では言い訳はできん。それにしても、よう負けたな。自分でも信じられんわい」

 退団会見が終わり、親しい記者たちに囲まれたクマさんはホッとした表情で笑った。そしてこの人も…。

 「私も監督と一緒に辞任を申し出ました。イヤがるクマさんを無理やり引っ張り出したんは私ですから。責任を取るのは当然です」

 長田球団社長も同じように安堵(あんど)の表情を浮かべていた。

(敬称略)

関連トピックス

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ