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【勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一】(179)悩める18歳 プロか明大進学か 巻き返した阪急

明大進学か阪急入りか―で悩む三浦
明大進学か阪急入りか―で悩む三浦

 昭和52年のドラフトは全球団が制限いっぱいの6人、計72人を指名した。高校生が40人、大学生17人。社会人は15人で前年の21人から減少。大企業に在籍している選手が多く、〝冒険〟の意思がなくなったため-といわれた。

 当時でもまだプロ野球は「不安定な職業」といわれ、特に早くに退団となった高卒選手の前途は多難。それだけに選手たちの〝迷い〟も大きかった。

 阪急から2位指名された三浦広之投手(福島商)も大きく心が揺れ動いた。三浦はドラフト前の段階で三谷志郎投手(今治西)、山沖之彦投手(中村)らとともに「進学希望」組とされ、明大への進学が〝内定〟していた。

 阪急は上田利治監督自らが入団交渉にあたった。11月26日、秋季キャンプ地・高知-大阪-東京-福島と約11時間をかけて三浦家に到着。早速、交渉。三浦家は上田監督の熱意に感動した。

 「すばらしい監督さんです。プロでやってみようと思います」と三浦はプロ入りに傾いた。

 ところが12月5日、事態は急変。福島商で学校側が会見し「三浦は阪急を拒否して明大に進学します」と表明した。明大も島岡吉郎監督自らが乗り出し、三浦家や学校側にプレッシャーをかけたのである。

 「島岡監督にお会いして、精神野球のお話に惹(ひ)かれました。神宮のマウンドを踏むのが夢だったし、大学で心身ともに鍛えてからプロ入りしても遅くないと思います」と三浦の心はすっかり明大。

 阪急も巻き返した。V旅行から帰国した上田監督が11日に再度、福島入り。「1位指名と同じ扱い」「背番号は22」と好条件を提示しプロ側に引き戻した。「4年間じっくり大学で学んでから社会に出た方がいいと話したんだが…」と島岡監督は何度も首を横に振った。

 運命とは皮肉なものである。阪急入りした三浦は1年目(53年)4勝1敗。2年目7勝10敗。だが、まだ、体が出来ていなかった。肩やひじを痛め3年目は3勝3敗。1年目に覚えたスライダーを多投したことも故障の原因といわれた。4年目(56年)に1軍から三浦の姿が消え、58年に現役を引退した。自分で決断して進んだ道-とはいえ、なんとも厳しい現実である。

(敬称略)

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