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【勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一】(69)32年目の栄光 出来の悪い子ほど…父・一三に捧げるV

西本監督(右)と網越しに握手を交わす小林オーナー=昭和42年、西京極球場
西本監督(右)と網越しに握手を交わす小林オーナー=昭和42年、西京極球場

 昭和11年に球団を創立して以来、32年目の初優勝はプロ野球界で最も遅い優勝である。なぜ、こんなにも遅くなったのだろう。われわれの大先輩、山下重定記者は当時の新聞にこう記している。

 「ひとことでいえば親会社にその気がなかったからだ。いや、なかったといえば、言い過ぎかもしれぬ。優勝の夢を描きながら、本気で考えたことがなかった-と言った方が当たっているだろう」

 その通りである。戦後の23年から6年間、監督を務めた浜崎真二にこんな逸話が残っている。

 浜崎は阪急電車の運転士や車掌から「監督さん、勝ってくださいよ。そうでないと仕事に力が入らない」とよく言われた。そこで組合幹部を動かして、本社上層部にチーム補強への熱を入れさせようと画策した。だが、ムダだった。本社からは「品のいいチームにしてくれ」とは言われても、強力なチームを作ってくれ-とは一度も言われなかったという。

 2リーグ分裂の25年、チームはバラバラになった。それでも、もっと積極的な補強をしていれば、阪急の歴史はもっと変わったものになっていたはずである。

 歓喜の西京極に話を戻そう。

 ネット裏で優勝を見届けた小林米三オーナーは、西本幸雄監督と網越しに握手を交わした。今にも泣きだしそうな顔の西本へ「ごくろうさん」とひと言。2人にはそれで十分だった。

 「電車もかわいいが球団もかわいい。その球団が優勝してくれた。ありがたいことです。西本はえらい男です。ワシの趣味を野球にしよったんですから」

 西本が監督に就任した1年目の38年、チームは最下位に転落した。そのとき本社幹部たちは「球団経営から手を引きましょう」と小林に進言した。毎年、1億5千万円も経費がかかっていた。だが、米三は首を横に振った。

 「阪急には70人以上の子供(系列会社)がおます。親の情として出来の悪い子供ほど余計にかわいい。お金のかかる道楽息子やけど、そのうちまた、親をビックリさせることをやってくれますやろ」と幹部たちを説得した。

 もちろん、心の中では葛藤があった。「もう球団なんて…」と何度も思った。だが、そのたびに「父の顔が浮かんでねぇ。もう少し辛抱しようと思った」という。

 誰よりも早く〝職業野球〟の夢を描いた小林一三。父へ捧げる優勝でもあった。

(敬称略)

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