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野村克也氏 テスト生からはい上がり、独自理論で三冠王、名将へ 「選手だけではなく記者も育てた」

1970年4月、通算450本塁打を放つ南海・野村克也選手=後楽園
1970年4月、通算450本塁打を放つ南海・野村克也選手=後楽園
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 プロ野球の試合前のチーム練習の時間。ベンチの中で当時、監督を務めていた野村克也氏の野球談義に耳を傾けるのが、記者の仕事の一つだった。おなじみのぼそぼそしたつぶやきは、練習終了まで途切れない。配球論や野球選手としての心得など、自身の体験を交えながら分かりやすく解説してくれた。

 緻密な分析に基づくデータ重視の「ID野球」は野村氏の代名詞。きっかけは南海の元監督の鶴岡一人氏の一言だった。捕手の宿命で、直球を打たれても、変化球を打たれてもベンチに帰ると鶴岡氏に怒鳴られた。あるとき、勇気を出して「ピンチで強打者迎えたときには、どういうサインを出したら良いんですか」と聞いてみた。返ってきた答えは「勉強せい」。以来、打撃論の本などを探して読み、配球を独学で研究した。「捕手は監督以上のことをやっているな。1球1球を(サインを出す)指で試合を作っている。すごく責任が重い」と魅力を語った。

 独自の野球理論を生かして戦後初の三冠王に輝くなど、南海の黄金時代を支えた。その知識は昭和55年の引退後、「知将」への道を切り開くことになった。平成元年オフ、当時のヤクルト球団社長の相馬和夫氏が自宅に突然やってきた。ヤクルト監督のオファーだった。相馬氏は、野村氏の膨大なデータに基づいた的確な評論を読み「ぜひ、本物の野球をやってほしい」と依頼した。野村氏は「見てくれている人は見ていた」と就任を承諾。ヤクルトで9年間、指揮を採り、4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた。

1961年10月、日本シリーズ前の練習で巨人・長嶋茂雄選手(右)と談笑する南海・野村克也選手=大阪球場
1961年10月、日本シリーズ前の練習で巨人・長嶋茂雄選手(右)と談笑する南海・野村克也選手=大阪球場
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 当時の巨人の監督は長嶋茂雄氏。「奇抜なことをやらないと取り上げてくれない。『長嶋人気』を利用しよう」と長嶋氏の批判をあえて口にした。プロ入団前から脚光を浴びていた長嶋氏に対し、野村氏はブルペン捕手要員のテスト生からはい上がった。「長嶋がヒマワリなら、俺はひっそりと咲く月見草」と自らをたとえた。スターの敵役を買って出ることで、プロ野球人気を盛り上げた。その後、楽天の監督として、球団初のクライマックスシリーズ進出に導くなど、監督として手腕を発揮した。

 現在、野村氏が育てた多くの野球選手が指導者となり、現場で活躍している。ある先輩記者は「選手だけではなく、記者も育てた」と話していた。野村氏の野球談義は、野球の新たな見方を教えてくれて、より深い記事を書く上で参考になった。「ぼやき」をいつまでも聞いていたかった。

昭和40年11月、最優秀選手の表彰式で肩を組む巨人・王貞治選手(右)と南海・野村克也選手=東京都内のホテル
昭和40年11月、最優秀選手の表彰式で肩を組む巨人・王貞治選手(右)と南海・野村克也選手=東京都内のホテル
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昭和48年10月、南海がリーグ優勝。選手やファンに胴上げされる野村克也さん
昭和48年10月、南海がリーグ優勝。選手やファンに胴上げされる野村克也さん
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