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叱られ役の“名女房”田淵幸一さん 野球殿堂入り

巨人戦で本塁打を放つ阪神時代の田淵幸一氏=1973年6月、後楽園
巨人戦で本塁打を放つ阪神時代の田淵幸一氏=1973年6月、後楽園

 田淵幸一の野球殿堂入りが決まった。毎年、彼に一票を投じてきた筆者は「もっと早くに選ばれても…」という思いだ。

 ファンは現役時代の田淵を「ホームラン・アーチスト」と呼ぶ。美しい打撃フォーム、高く大きな放物線を描く打球はピンポン玉のように甲子園球場の上段に飛び込んだ。

 こんな話がある。入団間もない掛布雅之が打撃練習で外野を守っていたときのこと。

 「田淵さんが打った瞬間、上がり過ぎ-と前に出た。ところが、落下地点にボールが落ちてこない。次もその次も。打球はそのままスタンドに飛び込んでいった。見たことのないホームランだったよ」

 田淵は入団1年目から4番を打ち“ミスター・タイガース”といわれた。昭和53年、チームは最下位のどん底であえいでいた。ある日、田淵は掛布ら若い選手を連れて大阪・北新地にでかけた。案の定、ファンに見つかり「飲み歩くヒマがあったら練習せんかい!」と罵声を浴びせかけられた。掛布たちはスーッと田淵の背後に隠れた。田淵が言う。

 「カケ、オレがいなくなったら、次はお前がみんなの防波堤になるんだぞ」

 掛布は田淵の背中の大きさを感じたという。そしてその年のオフ、田淵は西武へトレードになった。

 彼の殿堂入りが遅れたのは、ダイエーホークスの監督時代(1990~92年)の失敗が影響しているからだろう。6位、5位、4位-3年間で得た教訓は「オレは監督に向いていない」だけだった。

 2002年、親友・星野仙一の阪神監督就任にともない、田淵は打撃コーチとして古巣に復帰。03年、リーグ優勝を果たし、星野の胸で泣いた。当時、球団社長を務めていた野崎勝義は当時をこう振り返った。

 「僕は星野さんが中日時代のような“鉄拳指導”をウチでされたら、きっと失敗すると思っていました。ところが星野さんは鉄拳を封印、いや、怒りの矛先を田淵さんに向けたんです」

 バカヤロー! 田淵、お前は何を教えてるんだ!

 「星野さんに怒鳴られている田淵さんはいつも直立不動でした。その姿に選手たちも何かを感じたのでしょう。選手たちは変わりました。だから優勝できたのだと思います」

 星野監督の“叱られ役”。監督から命令されたわけではない。

 「そんなこと言葉にしなくても分かるよ。親友だから。亭主が何を考えているのか顔を見ればわかる-それが女房だろう」と田淵は笑った。名参謀ではなく“名女房役”。殿堂入りにふさわしい業績である。=敬称略(田所龍一)

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