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【スポーツ茶論】「野中の一本杉」 別府育郎

 東京・新宿、花園神社のそばに、小さな奄美料理の店があった。昭和50年代の中ごろだったと思う。父親に連れられて店に入った。定番の豚みそと油ゾーメンをつまみに、黒糖焼酎を飲んだ。

 後にその店は、亡き梶山季之らトップ屋集団のたまり場だったとも聞いた。しばらくして店は新宿2丁目に引っ越し、少し広くなったが、すでに閉店した。

 記憶では、引っ越す前も後も、店の壁には偉丈夫の写真が飾られていた。店主は奄美群島徳之島の生まれで、写真では同島出身の柔道家、徳三宝が胸を張っていた。

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 徳之島は奄美大島の南に位置する周囲約80キロの島だが、徳三宝の他にも、46代横綱朝潮や旭道山ら優れた格闘家を輩出している。長寿世界一の泉重千代翁や徳洲会創設の徳田虎雄ら、著名、有名な出身者も数多い。

 徳三宝は明治20年生まれ。18歳で講道館に入門し、嘉納治五郎に師事した。得意は体落とし、横捨身、大内刈り。講道館最強とうたわれ、「柔の三船久蔵、豪の徳三宝」と並び称された。四天王の西郷四郎とともに、小説や映画でおなじみ「姿三四郎」のモデルの一人ともされる。

 相手の技に微動だにしない立ち姿は「野中の一本杉」に例えられ、あまりの強さに徳三宝と対するときは膝をつかせただけでも一本に値するとして「膝つき一本」なる言葉まで生んだ。

 猛稽古でも知られたが、半面、自分が投げられることはないからと受け身の練習はやらなかったという。晩年、若い後輩に投げられて頭から畳に落ち、うれしそうに笑ったとの逸話もある。

 大正元年に道場破りのブラジル艦隊の水兵15人を次々投げ飛ばして講道館を破門されたが、6年後、嘉納に許され道場に戻り、その後は早稲田大学、日本大学、拓殖大学などで後進を指導した。

 昭和20年3月10日、東京大空襲。徳三宝は隅田川に逃げたが、彼の偉丈夫ぶりを頼って女性や子供がしがみつき、これを振り払うこともできずそのまま水中に没したという。遺体すら見つからなかった。57歳。講道館は同日付で彼を九段に昇段させた。

 徳之島産の黒糖焼酎「徳三宝」にその名を残し、「柔道一代 徳三宝」は、バルセロナ五輪の金メダリスト、古賀稔彦の歌でCDとなった。郷土の英雄である。

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