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【昭和39年物語】(13)「正司」から「将司」へ…野球より好きなもの見つけた

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プロ転向2年目の昭和46年9月、日本プロゴルフ選手権で初優勝した尾崎将司。「ジャンボ時代」の幕開けだ
プロ転向2年目の昭和46年9月、日本プロゴルフ選手権で初優勝した尾崎将司。「ジャンボ時代」の幕開けだ

 甲子園で名を馳(はせ)た尾崎正司(海南)と池永正明(下関商)は昭和39年オフ、くしくも同じ、中西太監督率いる西鉄ライオンズに入団した。

 2人はお互いに意識し合ったという。だが、「投手」としての才能は池永の方が勝っていた。1年目から20勝(10敗)を挙げた池永に対し、尾崎はわずか17試合に登板(0勝1敗)しただけ。「池永がおったら、わしなんて投手では飯は食えん」と「外野手」に転向した。

 池永は2年目15勝、3年目23勝-と、大エース稲尾和久の“後継者”として実績を積み上げていった。3年目のシーズンが終わった42年12月、尾崎は中西監督へ「退団」を申し入れた。「野球では池永に勝てない。だから違う世界で勝ってみせる」というのが、退団の理由といわれている。だが、本間は「それはちょっと違うと思うよ」と異論を唱えた。実は本間は、40年のオフに阪神から西鉄へ移籍し、尾崎とはチームメートになっていた。

 「たしかに尾崎と池永は仲が良かったとはいえん。一緒に出かけるということもなかったしね。でも、池永に負けたから野球を捨てた-というのは違うと思う」。西鉄に移籍し尾崎のバッティングを見た本間は驚いた。「すごかったよ。ボンボン遠くへ飛ばしていたし、2、3年後には必ず西鉄の4番打者になると、みんな確信していた」。

 その尾崎がなぜ、「野球」を捨てたのか。

 「そんなに好きじゃなかったんだろう、野球が…。それに、もっと好きなもの、自分の人生を懸けるにふさわしいものをみつけたんだと思う」。それがゴルフだった。本間の記憶では尾崎がゴルフを始めたのはライオンズに入団してから。一緒に回ったときにはすでに「シングルの人とスクラッチでラウンドできる実力」だった。ということは、わずか3年足らずで…本間は尾崎に「天才」を感じたという。

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