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義足の2メートルジャンパー・鈴木徹選手 6回目のパラリンピックで初メダル狙う

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 フジテレビのパラスポーツ応援プロジェクト「PARA☆DO! TALK&LIVE」が10月21日、東京・丸の内で行われ、同月インドネシアで開催されたアジアパラ競技大会の走り高跳びで銀メダルを獲得した義足のジャンパー・鈴木徹選手(38、SMBC日興証券、障害クラスT64)と歌手の水前寺清子さんがトークショーを行った。鈴木選手が挑戦し続けた半生を振り返り、水前寺さんが代表曲「三百六十五歩のマーチ」でパラスポーツ関わるすべての人にエールを送ると、会場は大きく沸いた。

 2メートル02の日本・アジア記録を持つ鈴木選手は、パラリンピック5大会連続入賞を果たしているパラスポーツ界のレジェンド。2020年の東京パラリンピックで悲願のメダル獲得を目指している。

トークイベントに出席した鈴木徹選手(中央)と水前寺清子さん(右)。手前はフジテレビの佐々木恭子アナウンサー
トークイベントに出席した鈴木徹選手(中央)と水前寺清子さん(右)。手前はフジテレビの佐々木恭子アナウンサー
「三百六十五歩のマーチ」を熱唱する水前寺清子さん(手前)
「三百六十五歩のマーチ」を熱唱する水前寺清子さん(手前)

 鈴木選手は1999年、高校卒業を1週間後に控えた日の交通事故で右足を失った。

 山梨県で育った鈴木選手は、地元で盛んだったハンドボールにのめり込み、高校時代に国体で3位を経験した。当時の夢はハンドボール日本代表。スポーツ推薦で強豪の筑波大学への進学が決まり、厳しい部活や勉強から解放され、高校生活の最後を謳歌しているときに悲劇が襲った。原因は、自身の居眠り運転だった。

「免許をとったばかりで運転できるのが嬉しくてしょうがなかった時期です。アルバイトをしていて1日の睡眠時間が2、3時間。若かったので休憩をしっかりとる意識がありませんでした。事故の後は足が残ることだけを祈っていました」

 だが、手術の結果は思うようにいかず「命をとるか、足をとるか」(鈴木選手)という選択を迫られ、右足の膝下11センチメートルを残して切断。大学は1年間休学した。アスリートとしての将来が途絶えてもおかしくない逆境だったが、鈴木選手は諦めなかった。復帰の道を探してもがくところに、ターニングポイントとなる出会いが待っていた。

「山梨にはスポーツ義足を作れる方がいなかったので、両親がスポーツ用義足製作の第一人者、臼井二美男さんを訪ねてくれて、1回目からすごく良い義足を作っていただけました」

 臼井氏は障害者のためのスポーツクラブを主催していた。足を失った人から走りたいという気持ちを引き出す指導をする臼井氏の影響を受けてリハビリに取り組むうちに、義足では走れない、という感覚が変わっていった。そのリハビリ中に走り高跳びに挑戦した。

 小中学校の頃に走り高跳びをして、県の陸上記録会で好成績をマークしたこともある。何よりハンドボールで培われた全身のバネを生かせる競技だ。

 競技人口が少なかったこともあってか、当時のパラの日本記録は1メートル50。鈴木選手は、初めて出場した公式大会で1メートル74を跳び大きく記録を塗り替え、その後も自身の日本記録を順調に更新した。2000年10月のシドニーパラリンピック走り高跳びに、義足の日本人選手として初めて出場して6位入賞を果たした。人生を変えた事故から、わずか1年半での快挙だった。そこから、鈴木選手の、パイオニアとしての競技人生が始まった。

 2004年のアテネパラリンピックの後、プロを目指して活動を始める。「当時はパラリンピックに行ったと言うと『それ、どこ?』と聞き返す方がおられるほど、パラスポーツの認知度が低かった。誰かがパラスポーツを広めていかなければ、という思いがきっかけでした」。

 スポンサー集めは難航したが、1日5社、合計で100社を目標に連絡をとったところ、福祉などに関心を持つ3社からの支援を取り付けた。「自分を商品と考え、どう説明したら相手に話を聞いてもらえるかで試行錯誤したのはいい経験になりました」。その翌年にプロ転向。義足アスリートでは日本人初だったという。

2メートル02の高さにテープが張られ、鈴木選手(中央)がジャンプについて話した
2メートル02の高さにテープが張られ、鈴木選手(中央)がジャンプについて話した

 2006年にはジャパンパラリンピック(現在のジャパンパラ競技大会)でアジア人で初めて2メートルの壁を超えた。当時、2メートルを跳べる義足ジャンパーは世界に2人しかおらず、名実ともに世界トップ選手の仲間入りを果たした。現在の自己ベスト、2メートル02は日本・アジア記録だ。

 5大会連続出場中のパラリンピックでは大会ごとに順位を上げ、2012年ロンドン大会と2016年リオ大会ではメダルまであと一歩の4位。特にリオ大会では、銅メダルのベネズエラ選手と6センチ差の1メートル95で、前哨戦で記録した自己ベストの2メートル02が出ていればメダル圏内に入るところまで迫った。

 2020年の東京大会では悲願のメダル獲りを目指す。「皆さんに競技を生で見ていただくためにも、まずはパラリンピック出場権を得たい。パラリンピックでは4位が最高なので、東京でメダルを獲って皆さんに喜んでもらうためにも、あと2年頑張っていきたい」。競技人生の集大成を東京で見せたいという決意表明に、会場から大きな拍手が沸き上がった。

■本格始動の前に「幅跳び」も挑戦

 鈴木選手は東京パラリンピックが2年後に迫る今年10月、インドネシアのジャカルタで行われたアジアパラ競技大会で銀メダルを獲得し、2018年のシーズンを終えた。アジアパラでの記録は1メートル89。アキレス腱の怪我が治ったばかりで本調子とは言えない状態で挑んだ大会だったが、収穫は多かったようだ。

 最大の収穫はやはり銀メダルの獲得だろう。鈴木選手は、2012年のアジアパラ韓国大会の男子400メートルリレーで金メダルを獲得しているが、走り高跳びのメダルは初。2メートルジャンパーの鈴木選手でも今大会までメダルに手が届かなかったのには理由がある。

「これまでのアジアパラでは障害クラスT63(片側の膝より上に義肢を装着するクラス)の選手といっしょに競技が行われて、(鈴木選手のT64では大記録の)2メートル10を跳んでもメダルが獲れないということがありました。今回は競技が分かれて、やっとメダルが獲れたので嬉しかった。昨年の世界選手権で3位なのにアジアでメダルなし、というのは変な感じがするので(笑)」

 パラスポーツで近い障害クラスの選手同士が戦うのはよく見る光景だ。今回のアジアパラで鈴木選手を抑えて優勝したウズベキスタンの選手の障害クラスは、下肢筋力低下などで義足を装着しないT44で、東京パラリンピックも同様にT44とT64の選手が競うことになる。

 記録を競う陸上競技の場合、ライバルたちの成績が自分のメンタルや戦略に与える影響は見過ごせない。T63とT64で別々に戦う競技環境が整っていくことは、トップアスリート達の戦いをよりハイレベルにしていくかもしれない。

 もうひとつの収穫は「リハーサル」の大切さだった。アジアパラの決勝では、東南アジアの強い直射日光にさらされ、気温35度の暑さに苦しんだ。試合後、鈴木選手は熱中症にかかったという。

「選手用のテントが用意されていませんでした。(首筋や顔を冷やすのに使った)凍らせたドリンクを持ち込んでいなかったら競技中に倒れていたかもしれません」

 猛暑が競技に及ぼした影響は大きかった。ジャンプに失敗すると、その分、跳び直しの回数が増える。暑さで体力と集中力が消耗する中で跳ぶ回数が増えればダメージが蓄積される。メダルの色を争う段階の跳躍でマイナスになる。

「下見を20~30分で済ませてしまったのが私のミス。1時間はその場にいるべきでした。東京では2、3時間、ボーッとしているだけでいいので、暑さがどう変わっていくかを事前に体感してから本番に臨みたい」

 その点で日本選手のホームアドバンテージは大きい。鈴木選手は「東京特有の蒸し暑さをどう攻略していくかが大事になるのでは」と話し、決戦の舞台となる新国立競技場(建設中)で練習するのが楽しみだと目を輝かせた。

 東京パラリンピックに向け、来年から本格始動する鈴木選手。昨年をリオ大会後の休養の年、2018年をチャレンジとスタートの年と位置づける。

「同じことだけをやっていてはいけない。(アスリートとしての)枠を広げるには、違う環境での練習や、別の種目への挑戦が必要だと思い、走り幅跳びに挑戦しました」

 並行して2つの種目を練習することで、筋肉の疲れる部分の違いを体感した。高跳びでは股関節の動きに影響する中臀筋をよく使っていると考え、トレーニングにフィードバックさせている。

「高跳びにつながるか分かりませんが、一度“自分”を崩して、来年から準備していこうと思います」

 狙うは地元開催のパラリンピックでメダル初獲得だ。決勝のその日に競技人生のピークを合わせるべく、鈴木選手は入念に準備を続ける。

(フジテレビ)

フジテレビ系列パラスポーツ応援ソング「マイ・ビクトリー」などを披露した歌手の清貴さん
フジテレビ系列パラスポーツ応援ソング「マイ・ビクトリー」などを披露した歌手の清貴さん
水前寺清子さん(手前右)が歌う「三百六十五歩のマーチ」で会場が一体になった
水前寺清子さん(手前右)が歌う「三百六十五歩のマーチ」で会場が一体になった

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