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【焦土からのプレーボール 濃人渉物語(2)】終戦の翌年、都市対抗出場 51年から「濃人学校」でプロを育てる

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【焦土からのプレーボール 濃人渉物語(2)】
終戦の翌年、都市対抗出場 51年から「濃人学校」でプロを育てる

濃人渉は後に日鉄二瀬から中日入り。指導者として腕をふるう=1960年10月の監督就任会見

 戦時中は中断されていた夏の都市対抗野球は終戦翌年の1946年に復活。1年前に原爆で壊滅的な被害を受けた広島市からは「鯉城園(りじょうえん)」が初出場し、メンバーに濃人渉(のうにん・わたる)の姿もあった。

 広島でのスポーツの復興は早かった。市中心部の旧西練兵場では元金鯱の濃人や阪神の門前真佐人ら戦前の職業野球の選手が中心となり、練習を再開。広島城の別名を社名に持つキャバレーや映画館の経営者がチームスポンサーとなり、中国予選を勝ち抜いた。

 後楽園球場の本大会では1回戦で延長十一回の末、惜敗したが、相手の大日本土木(岐阜市)はそのまま優勝。濃人は翌47年は1年だけ存在した第二のプロ野球「国民リーグ」、48年は現在のロッテにつながる球団の金星でプレー後、いったん現役を引退する。

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