【オリンピズム】嘉納治五郎と幻の東京大会(3)厳しい結果も「大きな誇りを」 - 産経ニュース

【オリンピズム】嘉納治五郎と幻の東京大会(3)厳しい結果も「大きな誇りを」

 初めての五輪に向かう2人を待つ人々で新橋駅(当時)はあふれんばかりだった。1912年5月16日、三島弥彦、金栗四三はストックホルムに向けて出発する。見送りには遅れてストックホルムに向かう嘉納治五郎をはじめ、大日本体育協会総務理事の安部磯雄(早大運動部長)、永井道明(東京高師体育部主任)らの姿もあった。
 数カ月前、嘉納は東京高等師範学校の生徒でもある金栗を激励している。
 「わが国はまだ各方面とも欧米の先進国に遅れ、劣っている。取り分け遅れている部門に体育スポーツがある。(中略)君の準備が十分でなく、万一ストックホルムのマラソンに敗れたとしても、それは君一人の責任ではない」と説き、さらに「何事によらず先覚者たちの苦心は、昔も今も変わりはない。その苦心があって、やがて花の咲く未来をもつものだ。日本スポーツ発展の基礎を築くため、選手としてオリンピック大会に出場してくれ」とエールを送った。
 敦賀からウラジオストクへ渡り、シベリア鉄道を経由してスウェーデンへと向かった初の“五輪選手団”が、ストックホルムに到着したのは6月2日。出発からなんと18日間もかかった。開幕は7月6日に迫っていた。
 第5回大会には28の国・地域から2407選手が参加した。競技数は前回ロンドン大会から近代五種、馬術などが加わって計15。初日の100メートル予選に挑んだ三島は、16組で5位。続く200メートル予選でも4位に終わり、予選通過はならなかった。400メートルは準決勝に進んだものの、脚の痛みと疲労のために棄権。そんな中、100メートルから800メートルまでを制した米国の強さは際立った。
 マラソンはどうだったのか。レース当日は気温が上昇し、炎天下で脱落者が続出した。世界記録保持者として期待を一身に背負った金栗も途中棄権に終わる。
 嘉納は現地での2人の練習風景について記している。スポーツにおいて欧米より遅れている状況が痛いほど分かる内容だ。
 「(金栗が)世界記録を破ったことがアメリカの新聞に掲載され、又欧州でも評判であった。だが一人で練習していた。三島君も一人でトラックへ行って練習しているのだが、アメリカやその他の国の選手が多数の応援に囲まれて、コーチが一々ついて練習しているのと比べると、気の毒でならなかった」
 当然ながら初めての五輪の舞台は、厳しい結果に終わる。無念の思いを胸に刻んだであろう三島と金栗に対し、ストックホルムを離れる日、団長でもあった嘉納は言葉を贈った。
 「落胆してはいけない。外国の技術を学び、大きな刺激を得たことは大成功と思う。日本のスポーツが、国際的なひのき舞台に第一歩を踏み出すきっかけをつくったという意味で、大きな誇りをもってほしい」。嘉納は決して悲観してはいない。最善を尽くすのみと、前をしっかと向いていた。=敬称略(監修 真田久筑波大教授 構成 金子昌世)