“トビウオ”とその時代(12)遠かった五輪メダル

オリンピズム
ヘルシンキ五輪開会式で、満員のスタジアムを入場行進する日本選手団。古橋は主将を務めた=1952年7月

 「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやってください」

 その日、NHKラジオの実況は悲しく響いた…。生涯で世界記録を33度も塗り替えた英雄、敗戦にうちひしがれた戦後の日本に灯をともし、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進が敗れた。

 1952年7月30日、ヘルシンキ五輪競泳男子400メートル自由形決勝でのことだった。優勝したボアトウ(フランス)とは約20メートルもの差がついた。誰もが勝ってくれるに違いないと願った英雄は、8位でレースを終えた。4分42秒1。ボアトウに遅れること11秒4、自身の日本記録からも9秒あまりも遅いタイムで喫した敗戦だった。

 「内心勝てないことは分かっていた。でも出るからには全力を尽くさないといけない。レース後、『古橋は泣いていた』とも書かれたようだが、敗北は覚悟していたし、やるだけのことはやった。すっきりしていたんだよ」

 実際、ヘルシンキ五輪代表選考会を兼ねた6月の日本選手権は400メートル自由形一本に絞らざるを得なかった。それでも代表入りぎりぎりの3位がやっとの状態だった。

 最盛期のころとは違った環境にも置かれていた。社会人2年目。入社後は午後3時まで仕事をこなした。大学卒業を前に、東京都世田谷区に自宅を構えた。知人から借金をし、金融機関からも融資を受けた。浜松から体調を崩していた父親と6人の弟妹を引き取るためだった。

 五輪に向けて練習に集中できるようにと、大学院進学を勧める人もいた。資金援助を申し出てくれる人もいたという。また、就職に際し映画会社や大手製鉄会社からの“好待遇”も振り切った。「水泳と関係のないところへ行こうと決めていたし、大学で水泳はやめようと思っていた」からだ。そして大同毛織への入社は会社側から「フジヤマのトビウオという名声が欲しいのではない。そこまで努力した古橋が必要なんだ」と言われたことが決め手になったという。そんな古橋の姿を、橋爪四郎は「長男としていろんなものを背負い込んでいたんだと思う」と感じていた。

 2012年ロンドン五輪で銀メダルに輝いた400メートルメドレーリレーに臨む際、松田丈志が語った「(北島康介を)手ぶらで帰らせるわけにはいかない」は話題を呼んだが、当時も古橋にメダルを取らせたいと誰もが思っていた。大会を取材した葉室鉄夫は最終日の800メートルリレーへの起用を日本チームに訴えたという。理由はこうだ。「古橋は腕を水中に突っ込んだらそのままかく、そのピッチはまるで風車のようだった。確かに本来の調子ではない。だが、あのピッチなら、200メートルなら行ける」

 橋爪も起用を訴えたという。「あのとき、800メートルリレーに起用してくれていれば…。古橋の性格だったら200メートルならそれこそ、渾身(こんしん)の泳ぎをしたと思う」。しかし、銀メダルを獲得したメンバーに古橋の姿はなかった。=敬称略(金子昌世)