戦後75年


焦土からの復興、世界第2位の経済大国へと押しあげた高度経済成長、そしてその終焉(しゅうえん)と少子高齢化社会の到来。わが国は戦後75年、さまざまな危機を乗り越え、また新たな危機に直面している。これまでの75年を踏まえ、日本は今後どこに向かおうとしているのか。


米英中などと戦争を継続していた日本は20年8月15日、降伏を意味するポツダム宣言の受諾を公表した。連合国軍総司令部(GHQ)司令官のマッカーサー元帥は同月30日、コーンパイプをくわえて厚木飛行場に到着。荒廃した日本の「戦後」は米国中心の占領で始まった


大日本帝国憲法(明治憲法)を改正した日本国憲法が22年5月3日、施行された。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義(戦争放棄)の三原則を掲げた憲法は、GHQが短期間で原案を作成。時代は移り変わっても73年間、一度も改正されていない


GHQは「戦争犯罪人」を次々と逮捕。2年半におよぶ東京裁判(極東国際軍事裁判)の結果、23年11月12日、太平洋戦争開戦時の首相だった東条英機ら7人のいわゆるA級戦犯に死刑判決を下し、12月23日に執行した。事後法による裁判結果には当時も今も批判が多い


日本は26年9月8日、米英などの連合国と米サンフランシスコで講和条約を締結。これに伴い27年4月28日、独立を回復した。同時に日米安全保障条約も締結、発効したが、自衛組織を持たない日本に対する米国の防衛義務はなかった。双務的な内容の改定は8年後だった


独立を回復した日本は戦災からの復興と経済成長を続け、31年の経済白書には「もはや『戦後』ではない」との表現が登場。流行語となった。33年12月23日に竣工(しゅんこう)した東京タワーは日本の経済成長の象徴に。現在も東京のシンボルとなっている


34年9月、紀伊半島に上陸した伊勢湾台風は東海地方を中心に猛威を振るった。死者・行方不明者は5000人を超え、明治以降の台風災害では最悪の事態に。これを契機に国や自治体などの防災対策を定めた災害対策基本法が成立した


東京五輪開会を直後に控えた39年10月1日、世界初の高速鉄道である東海道新幹線が開通した。開通時の最高速度は210キロで、東京-新大阪間を2時間30分間短縮して4時間で結んだ。高度経済成長を象徴する「夢の超特急」は日本の大動脈を現在も支え続ける


アジアで初めてとなる東京五輪が39年10月10日、始まった。開会式では航空自衛隊ブルーインパルスによって紺碧(こんぺき)の空に五輪のマークが描かれ、多くの人の目に焼き付いた。戦後復興の象徴となった五輪から57年、来年夏には2回目の東京五輪が行われる


44年1月18~19日、全共闘が立てこもった東大安田講堂に警視庁が突入、封鎖を解除した。反戦などを訴える学生や左派の過激な活動を象徴する事件となったが、47年に連合赤軍によるあさま山荘事件、リンチ事件が発覚すると、学生運動は一気に下火となった


49年10月14日、「ミスタージャイアンツ」こと、プロ野球巨人軍の長嶋茂雄が「わが巨人軍は永久に不滅です」との言葉を残して現役を引退した。戦後を代表するスーパースターの引退は、前年のオイルショックに象徴される高度経済成長の終わりとも重なった


「今太閤」「コンピューター付きブルドーザー」ともてはやされた田中角栄元首相が51年7月27日、米ロッキード社の航空機売り込みに絡み逮捕された。戦後最大の疑獄事件で1審、2審は有罪となったが、田中元首相は無罪を主張。最高裁に上告中の平成5年に死去した


52年11月15日、新潟市で下校中だった中学1年の横田めぐみさんが姿を消した。後に北朝鮮による拉致と判明し、平成14年にようやく認めたが、「死亡」を通告。一部の拉致被害者らは帰国したが、めぐみさんをはじめ今も多くの日本人が「帰還」を果たせていない


60年8月12日、お盆の帰省客らで満席だった日航ジャンボ機123便が群馬県の御巣鷹山中に墜落した。乗客乗員524人のうち520人が死亡し、単独機では世界最悪の航空機事故に。機体の修理不備が原因とされるが、関係者が刑事事件に問われることはなかった


平成7年1月17日未明、兵庫県南部でマグニチュード7.3の巨大地震が発生、6434人が犠牲となった。神戸を中心に都市部の被害が甚大で、倒壊した高速道路は「安全神話」崩壊の象徴に。政府の初動対応が遅れ、自衛隊の役割が見直される契機ともなった


阪神大震災から2カ月後の7年3月20日朝、東京の複数の地下鉄で猛毒のサリンが散布され、14人が死亡、約6300人が負傷した。麻原彰晃こと松本智津夫のオウム真理教による未曽有の無差別テロ事件で、他の事件も含め麻原ら13人に死刑判決が下り、30年7月に執行された


14年5~6月、世界のスポーツで最も注目を集めるとされるサッカー・ワールドカップ(W杯)が日本で初めて開催された。韓国との共催で、2カ国開催は初めて。日本代表は初めてベスト16に進出、日本中が歓喜に包まれた


20年9月、米投資銀行のリーマン・ブラザーズが負債総額約6000億ドルを抱えて経営破綻し、世界的な金融危機となった。日本でも日経平均株価が9月の1万2000円台から10月に6000円台と大暴落。バブル経済崩壊に伴う「失われた20年」を象徴する出来事となった


22年9月7日、沖縄・尖閣諸島周辺の領海内に中国漁船が侵入。海上保安庁の巡視船に体当たりし、中国人船長が逮捕された。中国の圧力に屈した形で菅直人政権は船長を釈放。衝突時の映像公開も拒んだ。尖閣は24年に国有化したが、現在も中国公船の侵入、接近が続く


23年3月11日、東北・三陸沖でマグニチュード9.0の国内観測史上最大の地震が発生。沿岸を大津波が襲い、死者・行方不明者1万8000人超の戦後最悪の災害となった。東京電力福島第1原発では炉心溶融(メルトダウン)で放射性物質が放出し、多くの人が故郷を追われた


令和に改元後、初の大みそかだった12月31日、金融商品取引法違反容疑で逮捕(後に起訴)された日産自動車前会長、カルロス・ゴーン被告がレバノンに逃亡したことが判明。日本の司法制度の信頼を揺るがす事態となった


中国・武漢市に端を発した肺炎を引き起こす新型コロナウイルスは日本にも拡大。学校休校、イベント自粛、外出や移動の自粛、そして緊急事態宣言の発令と、戦後経験したことのない事態が続出。長期的な経済低迷や医療崩壊の懸念もある中、戦いは今も続く

日本は石油や天然ガスのほぼ全量を輸入に頼り、原油の中東依存度は主要国でも突出して高い。化石燃料使用を減らそうと試みた原子力の拡大路線は転換を迫られた。「脱炭素化」の加速は可能なのか。転換期を迎えたエネルギー安全保障の針路を探る。
エネルギー安保に関わる戦後の主な出来事

教育。それは、次世代の担い手を育む国家の基軸だ。しかし、終戦から高度経済成長を経て成熟社会へと至る歩みの中で、ゆがみが生じている。偏向した教科書と教育者。時代に取り残された大学入試。後を絶たないいじめ被害。戦後社会は子供たちをどこへ導こうとしてきたのだろうか。
教育に関わる戦後の主な出来事

昨今の安全保障環境をみると、憲法前文にある「諸国民の公正と信義に信頼」しただけでは日本の安全を保つことができない現状がある。近隣諸国は日本の足元をみて、領土問題で挑発したり、拉致事件でだんまりを決め込んだりと、国家主権を脅かす行為をやめない。
国家主権に関わる戦後の主な出来事

望郷の念を募らせている人々がいる。昭和20年8月28日、北方領土に侵攻してきたソ連(現ロシア)軍に故郷を追われた島民たちだ。戦争は終わったはず…。そのとき島民たちは何を思い、どう行動したのか。証言を基に今もロシアが実効支配する北方領土の75年の時をさかのぼる。
北方領土をめぐる日露の動き

新型コロナウイルス禍で迎えた戦後75年。各地で予定されていた慰霊祭や追悼式は中止や縮小に追い込まれた。戦争体験者の高齢化に伴い、記憶の継承も喫緊の課題となる中、どのように事実を知り、伝えていくのか。慰霊と追悼の在り方を考える。
慰霊と追悼をめぐる年表を見る

人や企業が自由に経済活動を営む「資本主義」は戦後、大きく変容しつつも世界経済を発展させてきた。しかし、「貧富の差」は広がり、新型コロナウイルス禍では世界的に貧困層ほど死亡率が高くなる格差が浮き彫りになった。資本主義の行方は—。
戦後の世界の金融市場をめぐる主な動き

戦後日本の外交・安全保障は日米同盟を基軸としてきた。旧ソ連、北朝鮮、中国…。日本は常に軍事的脅威に直面しながらも、同盟がその抑止力となってきた。ポストコロナの世界を見据え、同盟はいかにあるべきなのか。
日米安保をめぐる年表を見る

戦後75年、日本国憲法に突きつけられる課題。新型コロナであらわになった緊急事態への対応(緊急事態条項)。自衛隊が明記されていない異常事態。一向に進まない国会の改正議論。憲法は一体誰のためのものなのか。
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