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印独立運動家チャンドラ・ボースの「ソ連亡命」を日本が終戦直前に容認 

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印独立運動家チャンドラ・ボースの「ソ連亡命」を日本が終戦直前に容認 

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 【ロンドン=岡部伸】第二次大戦中、日本の支援を受けて英国軍と戦い、終戦直後に台湾で事故死したとされるインド独立運動の英雄、スバス・チャンドラ・ボースに対し、日本が終戦のわずか3カ月前に、ソ連に亡命することを認めていた事実が最新の研究で明らかになった。戦局が敗色濃厚となる中、日本は反英独立闘争の継続を呼びかけるボースの意思を尊重して決断したものとみられる。

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 ボースの弟サラの孫息子である在英インド系英国人で、英BBC記者や米CNNインド特派員を務めたアシス・レイ氏(64)が25年間、インドや英国、台湾などで関係者から聴取し、公文書館から機密文書を入手して判明した。

 英秘密情報部(MI6)が1945年8月に作成した「ボースの最後の動き」(WO208/3812、英国立公文書館所蔵)によると、ボースは45年5月、自由インド仮政府を中国・延安に移し、中国共産党の力を借りてシベリアのソ連当局と接触することをバンコクで検討した。日本が敗れると、米英に訴追される恐れがあったためだ。

 56年にインド政府が実施した調査報告書(インド国防省所蔵)によると、ボースは米英との新たな角逐が想定されたソ連へ渡り、独立闘争を継続することを決意、ソ連国境に近い旧満州(現中国東北部)行きを望んだ。日本は当初、この案に後ろ向きだった。

 しかし、日本の対英インド独立工作責任者、磯田三郎中将の証言によると、ボースが日本との友好関係を継続する意思を表明したことで、日本政府と大本営がボースの「ソ連亡命」を認めたという。日本がポツダム宣言を受諾する3カ月前の5月中旬頃だった。

 磯田氏はボースに「最大限の支援」を約束、ボースが東京に行き、日本の支援に謝意を伝えた後、満州に渡ってソ連に投降する計画を立案。陸軍のソ連通で、ビルマ方面軍参謀長から大連の関東軍総参謀副長に転出する四手井(しでい)綱正中将にボースを同行させてソ連と交渉させる予定だった。

 しかし、日本軍機に乗ったボースは終戦3日後の8月18日、台北から離陸する直前、事故に遭い死亡したという。

 一方、インドでは、ボースへの根強い人気から事故死を疑問視する声がある。だが、ロシア外務省が調査した結果、ボースが45年以降、ソ連に入国、滞在していないことも判明した。

 レイ氏は「日本がソ連亡命を認めたのは、独立闘争支援を優先させた日本の配慮の表れで、連絡担当だった磯田氏の功績が大きい。日本がインドの解放と独立のために戦ったことは間違いない」と話している。

スバス・チャンドラ・ボース 1897年、インド・オリッサ州の弁護士の家に生まれる。英ケンブリッジ大留学後、マハトマ・ガンジーの反英闘争に参加。国民会議派議長を務めたが、ガンジーらと対立。1941年に軟禁中のコルカタの自宅を脱出しドイツでヒトラーと会談。43年には潜水艦を乗り継いで来日し東条英機政権の後押しで自由インド仮政府を樹立。インド国民軍を率いて日本軍とインパール作戦で英軍と戦った。敗戦後も独立闘争の継続を決意したが、45年8月18日、台北で事故死した。48歳だった。遺骨は東京都杉並区の蓮光寺に保管されている。