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好タイム出やすい東京に選手集中 びわ湖毎日が歴史に幕

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 現在開催されている国内の主要マラソン大会で最も長い歴史を持つびわ湖毎日マラソンが76回目となる2月28日のレースを最後に終了し、来年からは大阪マラソンに統合される。大津市の皇子山陸上競技場を発着点に、琵琶湖畔を走る風光明媚(めいび)なコースで知られる大会。過去には五輪金メダリストも優勝し、日本の男子マラソン界の発展にも大きく貢献してきた。しかし世界的に大規模マラソンが主流になり、高速化も進む中、その歴史に幕を下ろそうとしている。 (丸山和郎)

沿道に20万人

 大会が産声を上げたのは、終戦から間もない昭和21年10月のことだった。「全日本毎日マラソン選手権」として大阪で始まり、当初は大阪市のメインストリートである御堂筋も走るコースだった。

 大阪での最後の開催となった36年の第16回大会では、前年のローマ五輪で金メダルを獲得したアベベ・ビキラ(エチオピア)が優勝。翌年の第17回大会は大阪の交通事情悪化などを背景に、初めて滋賀県に舞台を移して開催された。

 東京五輪前年の38年と39年は、リハーサルを兼ねて五輪本番と同じ東京・国立競技場を発着点とするコースで行われた。五輪イヤーの第19回大会では君原健二(八幡製鉄)が35キロすぎから独走し、2時間17分11秒で優勝。2位の円谷幸吉(郡山自衛隊)、3位の寺沢徹(倉レ)までがそのまま東京五輪代表に選ばれ、日本のマラソン人気を高めるきっかけにもなった。

 五輪翌年の第20回大会からは滋賀に戻り、東京五輪で五輪2大会連続金メダルの偉業を達成したアベベが2時間22分55秒の平凡なタイムながら大会2度目の優勝。大会公式ホームページによると、沿道には約20万人の観衆が詰めかけたという。

瀬古氏「寂しい」

 それ以降も、国内の多くのランナーがこの大会で世界への足掛かりをつくった。

 53年の第33回大会では宗猛(旭化成)、翌年の第34回大会では双子の兄の茂(同)が相次いで優勝。58年に「びわ湖毎日マラソン」に名称を変更した後も、63年の第43回大会では3カ月前の福岡国際マラソンを負傷欠場した瀬古利彦(ヱスビー食品)が優勝し、ソウル五輪代表の最後の1枠に滑り込んだ。

 近年も五輪や世界選手権の代表選考会の一つとして開催。平成14年の第57回大会を最後に日本選手の優勝はないが、翌年の58回大会では藤原正和(中大)が現在も破られていない2時間8分12秒の初マラソン日本最高記録をマークし、3位に入った。

 湖畔で風が強く、決して高速コースではないが、その分、「優勝争いをして自己ベストが出れば自信になるコース」と話す選手も多かった。現在、日本陸連の強化戦略プロジェクトリーダーを務める瀬古は「円谷さん、君原さん、アベベとすごい人たちが歴史を作ってきた大会。なくなるのは寂しい」と実感を込めた。

MGC34人中、わずか3人

 大阪マラソンと統合される来年の大会は「第10回大阪マラソン、第77回びわ湖毎日マラソン統合大会(仮称)」として、従来の大阪マラソンのコースで2月27日に行われる予定になっている。統合の背景には、近年は同時期に開催され好記録が出やすい東京マラソンに有力選手が集まる傾向が強まったこともある。

 実際、東京五輪の代表争いでも、令和元年9月の代表選考会「マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)」の出場権を獲得した34人のうち、びわ湖毎日の成績によって得たのは、わずか3人。2年3月の第75回大会は代表の最後の1枠を争う「MGCファイナルチャレンジ」3レースの一つとなったが、五輪切符を得たのは1週間前の東京マラソンで2時間5分29秒の日本新をマークした大迫傑(ナイキ)で、びわ湖毎日の日本選手最上位のタイムは3分半遅かった。

 記録が期待できる大会に選手が集まり、好記録が生まれてますます有力選手が集中する。参加するレースの間隔をあけざるを得ないマラソンではこの傾向が強く、コースに起伏が多いさいたま国際マラソンは昨年1月、年末に予定していた大会の開催見送りが決定。大阪国際、名古屋ウィメンズと並んで国内の3大女子マラソンとされてきたが、今後は市民マラソンとしての存続を目指すという。

 滋賀での最後の開催となる今回大会は、コロナ禍を受けて競技場は無観客となり、沿道での応援も自粛が呼びかけられている。海外選手の参加もなく、寂しい大会になってしまうのは事実だ。ただ、日本陸連の横川浩会長は「半世紀を超える歴史の中で繰り広げられた数多くの名勝負は私たちの脳裏に焼き付き、この地を離れても末永く語り継がれていく」と強調した。(選手の所属は当時)

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