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【一聞百見】あの桂枝雀が見いだし立川談志に助けられた…サクセス物語 落語作家・小佐田定雄さん(67)

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桂枝雀に出会った当時の小佐田(右)。若い!(本人提供)
桂枝雀に出会った当時の小佐田(右)。若い!(本人提供)
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 落語作家・小佐田定雄、67歳。今や落語だけでなく、狂言や文楽、そして歌舞伎の脚本を手がける日本を代表する「芸能作家」である。そのきっかけは昭和52(1977)年、落語家・桂枝雀に送った“10枚の原稿用紙”。サラリーマンだった小佐田(当時は本名・中平)が書いた初めての作品「幽霊の辻」だった。なぜ、一介のサラリーマンが当時、全盛を誇っていた枝雀に? サクセスストーリーを追ってみた。(聞き手 編集委員・田所龍一)

■名人興奮させた素人の新作

 関西学院大の法学部を卒業した小佐田は保険会社に就職した。学生時代に大学の「古典芸能研究部」に所属し、寄席囃子について研究したものの、作家になろうなんて小指の先ほども考えていない。寄席通いはあくまで趣味。贔屓(ひいき)は桂枝雀…。「実は枝雀を襲名してからの落語はあんまり好きやなかったんですよ。小米時代は繊細できれいな大阪弁をしゃべってはった。それが枝雀になってからは目を寄せたり跳びはねたり…」

 昭和52年6月、そんな枝雀が新作落語の会「枝雀の会」を開くという。小佐田は期待して見にでかけた。「1回目は面白かった。けど、2回目はアイデアは分かるけど、ちょっと無理があった。3回目はストーリーの飛躍が激し過ぎて、お客がついて行かれへん」。そのとき小佐田の頭を巡ったのは「師匠の作りたかった落語はそんなんやないのと違いますか?」という思い。そして「こんな落語をやりたかったのとちゃいますか」と一心に書き上げたのが、原稿用紙10枚の「幽霊の辻」だった。

 「落語の台本なんて書いたことなかったし、米朝全集を引っ張り出して、書き方をマネしました」。枝雀に郵送した。返事をもらえるなんて思っていない。ところが2日後、枝雀本人から「会いたい」と電話がかかってきた。「まさか…とびっくりしました。角座の裏の喫茶店で会いました。後で師匠の奥さんに聞いたんですが、師匠も興奮しておられたようです」

 52年といえば「2代目桂枝雀」を襲名して5年目。新しい試みに取りかかろうとしているときだった。そこへ、全く違う世界から「こんなんどうですか」と新作落語を送りつけてきた。枝雀は感動した。「師匠も何かを欲してはったんでしょう。だから、新しい“仲間”が増えた-と喜んでくれはったようです」。枝雀は極端な恥ずかしがり屋。どこへ電話をかけるときも、奥さんがダイヤルするほど。ところが、このときは、自分から受話器をとって小佐田に電話をかけたという。

 2人が会って1カ月後の7月3日、「枝雀の会」で「幽霊の辻」が初演された。落語作家、誕生である。

「米朝一門会」の楽屋で桂南光(左)、桂米團治(右)と話をする小佐田=大阪市北区(山田哲司撮影)
「米朝一門会」の楽屋で桂南光(左)、桂米團治(右)と話をする小佐田=大阪市北区(山田哲司撮影)
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悲しみにくれる小佐田を救った立川談志
悲しみにくれる小佐田を救った立川談志
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≪取材余噺(1)≫

 小佐田は昭和39年から44年までラジオ大阪で放送された落語家・桂米朝とSF作家・小松左京のトーク番組「題名のない番組」への“はがき投稿少年”だった。「中学時代に替え歌やパロディー、ショートショートを書いて送りました。採用されると放送局のシャーペンがもらえた。それに高校(関学高)の担任の先生が毎週、原稿用紙2枚に文章を書かせたんです。ショートショートを書いたら、“次回も楽しみにしている”って」。いきなり作品を枝雀に送りつけた小佐田のルーツは中高時代にあったのである。

笑顔の優しい小佐田定雄 =大阪市北区のサンケイホールブリーゼ(山田哲司撮影)
笑顔の優しい小佐田定雄 =大阪市北区のサンケイホールブリーゼ(山田哲司撮影)
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■談志の「元気か!」に救われて

 サクセスストーリーの続き。小佐田はサラリーマンをしながら、落語を書くことになった。保険会社の仕事が終わると寄席に行き、桂枝雀と小佐田は夢中になって“笑い”について語り合った。話し始めると周りが見えなくなった。こんなことがあった。

 昭和60(1985)年11月2日、枝雀と小佐田はタクシーの中でいつものように話し込んでいた。大阪・梅田の交差点にさしかかった。陸橋の上に大勢の人、人、人。「何かお祭りだっか?」「分かりません。何かおましたんやろ」。2人はまた落語談議に集中した。大阪・吹田市の枝雀宅に着き、奥さんに何の騒ぎ?と尋ねると…。「世間のことを知らんのにもほどがあります!」と、2人は叱られた。「タイガースが日本一になった日やったんですわ」

 出会ってから10年後の62年、小佐田はサラリーマンを辞め、専業作家となった。決心を告げると枝雀はニッコリ笑ってこう言った。「アンタが十数年もサラリーマンしてたんが間違いです」。2人の関係はずっと続くと思っていた。だが、平成11年3月、枝雀は自ら命を絶とうとして病院に運ばれた。そして4月19日、意識が戻らないまま帰らぬ人となった。「周りがなんも見えんようになりました。枝雀師匠のおらん落語界なんて、もうええわ。作家なんか辞めようと…」

 ある寄席の楽屋、暗い顔の小佐田に「元気か!」と声がかかった。当時、枝雀と人気で東西を二分していた立川談志だった。「飛びっきりの笑顔でした。何も言いません。ただ、元気か! だけ。けど、わたしには“落語家は枝雀だけじゃねぇぜ”と言ってくれたように聞こえたんです。その瞬間ですわ、みんなの顔が見えたんです。ざこばさん、南光さん、雀三郎さん…」。小佐田は“枝雀の死”の悲しみから立ち直った。そして、その日から枝雀一門、そして米朝一門の作家へと独り立ちしたのである。

≪取材余噺(2)≫

 桂枝雀(昭和14年生まれ)と立川談志(同11年生まれ)。3歳違いの2人は50年代を代表する東西の人気落語家。小佐田に言わせると「全部自分が悪いと思い込むのが枝雀師匠で、全部他人が悪いと思ってるのが談志師匠」という。言い得て妙! 2人はそれぞれの力を認めているくせに、それを口にするのが嫌だった。談志は枝雀が好きで、パーティーで一緒になると、ニコニコ顔で近づいてくる。すると、枝雀は気配を感じてスーッと逃げる。小佐田が理由を聞くと「あの人、理屈っぽいでっしゃろ」。よういうわーの世界である。そんな枝雀が亡くなったとき、談志は小佐田にこう言った。「落語については枝雀の言ってることが正しかったな」。「師匠、枝雀師匠が生きてるときに言うてあげてほしかったです」。そして、ポツリ。「オレは枝雀を助けてやれなかったか?」。小佐田にとって忘れられない言葉になった。

新作「廓噺山名屋浦里」に主演した中村勘九郎(左)と中村七之助 =平成28(2016)年(加藤孝撮影)
新作「廓噺山名屋浦里」に主演した中村勘九郎(左)と中村七之助 =平成28(2016)年(加藤孝撮影)
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■タモリ→あかね夫人→鶴瓶→小佐田→勘九郎

 自分を見いだしてくれた「師」であり「友」だった桂枝雀を失った小佐田だが、一方で多くの「人」を得ていた。その一人が“人生の伴侶”となった落語作家のくまざわあかねである。関学大「古典芸能研究部」の後輩。平成6(1994)年に小佐田に入門したお弟子さん。15年に結婚。年の差19歳。あかね夫人はいまでも小佐田のことを「先生」と呼んでいる。

 そんな2人が大きな大きな作品を作り上げた。平成28年8月に歌舞伎座の納涼公演で上演された『廓噺山名屋浦里(さとのうわさやまなやうらざと)』である。舞台は江戸時代の遊郭吉原。花魁(おいらん)・浦里と地方から江戸勤番で出てきた若い武士・宗十郎との色恋ではない友情の物語。演じたのは中村勘九郎と中村七之助。実はこのお話、タレントのタモリがNHKの番組「ブラタモリ」で東京・吉原を訪れた際に聞き込んだ実話だった。それを24年、笑福亭鶴瓶に「落語にしたら」と持ちかけたのがことの始まり。鶴瓶は「ボクはよう書かんから、書く人を紹介するわ」と小佐田を指名した。

 そば屋の2階で、弟子のくまざわと一緒にタモリから話を聞いた小佐田は「正直、笑いどころが少なく、落語にするには難しい」と思ったという。すると横にいたくまざわが「先生、わたしが書いてもいいですか」と申し出た。そうして出来上がった新作落語が『山名屋浦里』だった。

 鶴瓶は1年間、江戸言葉と花魁言葉を勉強し、27年1月に初めて高座にかけた。後日、この噺を聞いていた中村勘九郎が、すぐに「これは歌舞伎になる。演じたい」と鶴瓶に連絡した。小佐田は「松竹の作家さんが歌舞伎に書き直す」と思っていた。ところが、ある日、鶴瓶の高座を聞いていると、摩訶(まか)不思議な現象が起こった。「不思議でした。鶴瓶師匠のあの顔が、七之助さんの顔にスーッと変わってみえたんです。できた!と思いました」。すぐさま小佐田は鶴瓶に「わたしが書きます」と宣言。5日で歌舞伎版『廓噺山名屋浦里』を書き上げたのである。

 「昔、米朝師匠に言われました。“大阪の笑いをやるんやったら、落語だけみてたらアカン。歌舞伎や文楽、漫才…と、いろんなもんを見なさい”と。わたしの今があるのは、そのおかげです。天職? ここまできたら、そう言えまんな」。枝雀に10枚の原稿用紙を送って、42年がたっていた。

落語界のおしどり夫婦、小佐田定雄・くまざわあかね夫妻 =大阪市北区の繁昌亭(沢野貴信撮影)
落語界のおしどり夫婦、小佐田定雄・くまざわあかね夫妻 =大阪市北区の繁昌亭(沢野貴信撮影)
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≪取材余噺(3)≫

 取材の途中、筆者は学生時代(大阪芸大)に、秋田実先生に師事し“漫才作家”を志した時期があったことを告白した。「秋田さん、一度でええから話をしたかったなぁ。わたし昭和63年に上方お笑い大賞の“秋田実賞”を頂いてるのに、先生と面識がないんですわ。どんな先生でした?」。小柄で話が面白くて、学校の帰りに大阪・阿倍野の近鉄百貨店の大食堂に連れて行かれ「わたし、ここの“ハヤシライス”が大好きやねん」と、ごちそうになったことを話すと、突然、小佐田はポーンと手をたたいてこう言った。「それ、きっと先生の洒落(しゃれ)ですわ」「洒落ですか?」「ほれ、先生の本名」「ええと、たしか本名・林…林大好き…ハヤシライスキ。ほんまや!」   (敬称略)

     ◇

【プロフィル】小佐田定雄(おさだ・さだお) 本名・中平定雄。昭和27年生まれ、大阪市西成区出身。関西学院大を卒業後、サラリーマンをしながら52年『幽霊の辻』でデビュー。桂枝雀や桂米朝一門の新作や改作落語を手がける。62年、サラリーマンを辞めて専業作家に。

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