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【正木利和のスポカル】5浪を乗り越え画壇の重鎮に 逆転人生、手塚雄二の描いた100年屏風

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自作「明治神宮内陣御屏風(日月四季花鳥)」の前に立つ手塚雄二=大阪市中央区
自作「明治神宮内陣御屏風(日月四季花鳥)」の前に立つ手塚雄二=大阪市中央区

 「その部分をカットしてしまうと、超イヤなやつですよね」

 日本画家の手塚雄二(66)は、微苦笑しながらいうのである。

 手塚のキャリアを見ていると、なるほど、そうかもしれないとも思う。

 東京芸大大学院を修了後に、助手となり、36歳から日本美術院賞を3年連続で獲得。1992年には日本美術院同人に推挙され、大学でも39歳で講師、42歳で助教授、51歳で教授と順調に昇進。画壇のホープとうたわれ、エリートコースを歩んできた。

 いま大阪高島屋で行われている「手塚雄二展 光を聴き、風を視る」(22日まで)は、自身4度目の回顧展になる。

 「45歳で1回目をやっていますからねえ。前回は12年前ですか…」

 たしかに、超大物感たっぷりだ。

 ところが、「その部分」と本人がいう人間臭い話を聞いていると、「超イヤなやつ」というイメージはほんとうに吹っ飛んでしまうだろう。

 逆に、よくぞここまで、という気持ちにさせれてしまうのだから不思議なのである。

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 鎌倉に生まれた。父は友禅染付絵師。しばらくして東京に転居することに。

 「東京といったって、小中学校を過ごしたのは昔の武蔵野といわれていたようないなか。僕は、風光明媚という景色でなく、どこにでもある風景を僕なりの視点でとらえたものを作品化します。幼いころに見た原風景がフラッシュバックして、ということもありますね」

 いまや風景画の大家だが、もともとは人物画を通してシュール(超現実)を表現したいと思っていた。

 「ところが、ある日突然、才能がなくなってしまったのです」

 芸術家にとって、最大の苦悩に見舞われたのには理由があった。

 学生結婚した妻が出産のあと体調を崩し、生活に対する不安が精神的に重くのしかかってきたのである。それで、絵を描くどころではなくなり、イメージが枯渇していったのだという。

 「もともとオリジナルなものを何もないところから生みだそうとしていましたから。ちょうど大学で助手をやっているころでした。才能っていうのは、ある日突然、ほんとうに枯渇していく。それがわかるんですよ」

 作品は多かれ少なかれ画家の人生を映す鏡となる。彼の絵を見る者はきっと、そのなかにまぶしい光と、闇のような影といった強いコントラストを感じるに違いない。

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 話は前後する。

 小さなころから絵が好きだった彼は、都立井草高校に進学、美術部に入った。3年で部長になったときには、プロを目指す感じになっていたのだという。「1年前の先輩が油絵、2年前の先輩が彫刻で芸大を目指していたので、それじゃあ僕は日本画だ、と」

 「必ず現役で受かるから」と親を説得して予備校に行かせてもらった。ところが1年目はあえなく1次試験で終了、さらにせがんで1浪させてもらったが、またも1次試験でアウト。「そうなると親もそろそろ『こいつには才能がないんじゃないか』と疑い始めるんですよ。2浪させてもらったけれども、今度は2次試験で落っこちた。で、親に『おまえには才能がない。働け』といわれ、就職しました。それでも、働きながら受験勉強したんですが3浪目はまた1次で落ちました」

 「まじめにやってこなかったからだ、次こそ思い切り人生をかけよう」と臨んだ4浪目は、自分を追い込むため、禁煙してみた。必死に勉強し、最終面接まで残ったが、またも撃沈。あきらめようと思ったが、つきあっていた彼女の「何かつかんだでしょ。もう一回やってみたら?」の言葉に、5浪して青春の区切りをつけようと思ったのだそうだ。

 結局、東京芸大に合格したときには23歳になっていた。責任もあるし、ずっとつきあってきた彼女とも結婚しなきゃ、と25歳で学生結婚。必死で勉強して奨学金がもらえる特待生を勝ち取り、妻の働きもあって家計を支えながら、暮らしていた。

 大学では助手にも抜擢され、「これでご飯も食べていける」と思った矢先、子供ができた。

 また、暮らしに対する不安がのしかかってきた。そうなると雑念が生まれスケッチだってうまくは仕上がらない。それでも、死にものぐるいで努力した。枯渇してゆく才能をまぎらわせるように。「ある日突然です。努力で気をまぎらわせていたら運がきた。努力をしていないと運はやってこないということです」

 挫折をくりかえしても、あくことなく努力を重ね、つかまえた運。そこから上昇気流に乗って、いまの地歩を固めた。

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 向こうからやってきた「運」といえば、今回の回顧展で展示されている「明治神宮内陣御屏風(日月四季花鳥)」も突然のように舞い込んできた名誉な話だった。下村観山(1873~1930年)が1920年に描いた「桜・桐・菊・蜜柑図屏風」を100年の節目に新たにするので、内陣屏風を制作してほしい、という依頼が3年ほど前に明治神宮からあった。

 制作された屏風は奉納されてしまえば、その後100年は神官以外、たとえ作者であろうと、もう見ることはかなわなくなる。

 今回の回顧展の話もあって忙しい手塚は、しばらく躊躇したが、「この展覧会で公開してみなさんに喜んでいただくことができるのなら」という条件で引きうけることにした。

 明治天皇を日、昭憲皇后を月として表現したその荘厳な屏風は、5月8日から20日まで京都高島屋、その後は福井県立美術館を回ることになっている。

 【プロフィル】正木利和(まさき・としかず) 産経新聞文化部編集委員。大阪新聞から産経新聞社会部、運動部、部長を経て現職。運動部歴25年目となった秋、念願かなって美術担当に。好きなものは以下の通り。富岡鉄斎の絵、ジャランスリワヤの靴、よく墨のおりる端渓硯(たんけいけん)、勇敢なボクサー、寡黙な長距離走者。当コラムはスポーツとカルチャーの話題を中心にすることからネーミング。おみしりおきを。

   

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