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【石野伸子の読み直し浪花女】黒岩重吾どん底からの凝視(3)満州ミステリー、鬱屈の叫び…帝塚山お嬢さまが昇華

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昭和35年5月、堺の教会で結婚式を挙げた黒岩重吾・秀子夫婦
昭和35年5月、堺の教会で結婚式を挙げた黒岩重吾・秀子夫婦

 黒岩重吾が初めて書いた小説は、外地の野戦病院での体験をもとに描いた「北満病棟記」だ。戦局の悪化とともに内地送還がとりやめとなり異国のベッドに取り残された患者たちが、ぎりぎりの生の営みを続ける。昭和24(1949)年、「週刊朝日」が募集した記録文学に応募したもので、むきだしの感情を凝視する作家の描写は目をそむけたくなるほどドギツイ。

 昭和19年3月同志社大学在学中に学徒出陣で旧満州(中国東北部)に送られ、もともと体が弱く現地で肺結核と診断され入院した。しかしその後、ソ連国境警備部隊に転属。昭和20年8月にソ連軍が攻め込んできたときには関東軍に取り残され、国境から貨車を乗り継ぎ南下する命からがらの逃避行を経験した。そのときの苦い体験が下敷きになっている。

 佳作になり活字にもなったが、それから作家デビューするまで約10年の歳月が流れた。その黒岩重吾が世に出るきっかけになった作品は長編「休日の断崖」。建築会社の営業部長が和歌山で変死体となって発見され、その死をめぐって、男女の愛憎や企業買収をめぐる陰謀が渦巻く社会派ミステリーだ。運命を呪うようにひたすら暗い場面が続く「北満病棟記」とはまるで違う世界だ。

 なぜミステリーだったのか。受賞後、「私とミステリー」という文章に書いている。当時、松本清張の登場で社会派ミステリーの隆盛期だった。確かにブームにのったきらいもあるが、本来自分の作品はミステリー向きなのだと解いている。

 「私は『北満病棟記』以来、常に人間の底にどす黒くよどみ、表面にはなかなか現われ難い、人間の翳(かげ)の部分を追究する作品を書いて来た。だから、私の小説に対するアイデアは、初めから人間の隠された部分を追究するミステリー的要素が入っていたように思う」

 「休日の断崖」には戦後の黒岩の体験がさまざまに生きている。和歌山で変死体となって発見された営業部長は死後、企業買収にからむ背任行為が取り沙汰され覚悟の自殺と受け止められが、年下の友人である業界紙社長は納得がいかない。独自に犯人捜しに乗り出すのだが、その企業買収にかかわる株式売却の内実はかつての証券会社での知識、業界紙は水道関連の新聞社に勤めたときの経験、夜の町の描写にはナイトクラブに勤めていた時代の見聞が存分に生かされた。

 そこに人間の陰の部分をとことん追究する黒岩の人間観察が光る。

 「読み返すと作者である私が苦笑するほど、当時の鬱屈した精神の叫び、なまの叫びが書き込まれている」と黒岩重吾はあとがきに書いている。

 次作の「背徳のメス」では、その叫びはより巧妙に、ドラマチックになった。

 大阪・阿倍野の場末にある病院に勤務する主人公は、看護師を次々ホテルに連れ込む不道徳な産婦人科医。しかし、患者を選別する上司には敵意をむきだしにする。主人公が不審なガス中毒事件に巻き込まれ、病院内に渦巻く欲望が暴かれる。訳ありの看護師、自分だけの正義感に生きる医師。

 そこには全身マヒで4年間を過ごした病院生活が活写される。かつて暗さばかりが突出した「北満病棟記」から、「見事に人物が描き分けられた」と直木賞の選考委員をうならせた物語に大きく歩を進めたのだ。

 その影に浪花女がいたことを特筆しておこう。

 初めての単行本『休日の断崖』が発刊されたその日、黒岩重吾は18年ごしの思いを実らせ、秀子夫人と大阪・堺市の教会で結婚式を挙げている。2人は学生時代に知り合い、淡い交際をしていたが、戦争のどさくさで別離を迎え、それぞれ別の道を歩んでいた。

 帝塚山育ちのお嬢さまだった秀子夫人は芦屋の裕福な男性と結婚。しかし意に染まぬ生活を自らの手で解消し人形作家として自立していた。一方の重吾は女優志願の女性と短い結婚生活を経験した後、入院時代に別れている。その2人がお互いの存在を忘れることなく、運命的な再会を果たしていたのだ。まだ黒岩重吾が作家として無名だった時代だ。

 無名作家から流行作家へと突き進む夫を見事に支えた夫人は後に『女房の狸寝入り』という本を書いている。その中に、作家から届いた手紙が紹介されている。

 「月が凍りついたような冬の夜、木枯らしが吹きすさぶ広い野に、一本の枯木が立っています。数ヶ月さきに春がやってくるはずです。枯木は思うのです。春になって芽がでるのはどの木だって出る。自分がほしいのは冬の夜、春を待つために傍にいてくれるもう一本の木だと」

 見事な春がやってきた。

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【プロフィル】石野伸子 産経新聞特別記者兼編集委員。生活面記者として長らく大阪の衣食住を取材。生活実感にもとづき自分の足と感性で発見したホンネコラムをつづるのを信条としている。

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【石野伸子の読み直し浪花女】「浪花女的読書案内」と題した冊子に

 産経新聞の夕刊(関西圏)でも好評連載中の「読み直し浪花女」が冊子になり、「浪花女的読書案内」として発売されている。連載は大阪ゆかりの作家の作品の中に浪花女像を再発見しようとスタート(夕刊では平成24=2012=年11月から)。山崎豊子、織田作之助、河野多惠子ら28人の作家を取り上げ、冊子では、この中から26人分を再編成している。

 ノーベル賞作家の川端康成は故郷・大阪をどう作品に埋め込んだか。野坂昭如はなぜ大阪時代を語らなかったか、林芙美子の絶筆はなぜ大阪だったのか。石野伸子産経新聞特別記者・編集委員が思いがけない視点から名作を解読する。

 92ページ、1500円(税込み、送料別)。冊子の申し込みは、名前、住所、郵便番号、電話番号、希望の冊数を明記し、はがき(〒556-8666(住所不要))▽FAX06・6633・2709▽電子メール( naniwa@esankei.com )―のいずれかで「冊子 浪花女的読書案内」係へ。産経新聞販売店でも申し込み可。問い合わせは、産経新聞開発(06・6633・6062、平日午前10時~午後5時)。

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