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【石野伸子の読み直し浪花女】黒岩重吾どん底からの凝視(2)釜ヶ崎の体臭 株で失敗、キャバレー宣伝の修行から直木賞

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 昨年復刊された『飛田ホテル』(ちくま文庫 http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480434975/ )の解説文を、作家の難波利三氏が書いている。「不肖の弟子」を自称する難波氏はかつて、飛田ホテルのモデルになった老朽アパートに連れて行かれたときの体験を紹介している。

 薄暗い玄関先に鉢巻きをした酔っ払いがしゃがんで用を足している。そばを野良犬が徘徊(はいかい)する。猥雑(わいざつ)きわまりないその雰囲気に驚いていると「ここが僕の原点だよ」と師匠は答えたという。そのアパートの近くに、まもなく高級ホテルで知られる業者が20階建てのホテルを建設する。時代は変わっていくのか。

相次いで復刊された黒岩重吾の2冊の飛田本
相次いで復刊された黒岩重吾の2冊の飛田本

 60年以上前、原因不明の全身マヒに襲われ、4年間の入院生活を終えた黒岩重吾は30代そこそこで界隈にたどりついた。株相場で大失敗して一文無しになり、借金返済のため実家を売り払い、家族に合わせる顔もない。人目を気にしなくてもいい場所として、逃げ込むように西成に住み着いたのだ。昭和32(1957)年のことだ。

 まずは入院中に覚えたカード占いで生計を立てる予定だったなかなかうまくいかない。意外な収入になったのが投稿謝礼だった。黒岩は学生時代から作家を夢見ており、昭和24年には旧満州での体験を書いた「北満病棟記」を週刊朝日の記録文学作品募集に応募し、入選した経験もあった。その後、執筆は滞ってしまったが、苦肉の策でコントや闘病記を投稿したら、そこそこお金になった。

 そこで一泊百円の木賃宿を出て、移ったのが飛田ホテルのモデルとなったアパート。「娼婦やポン引、怪し気なセールスマンが住む」場所だ。

 そして半年後、大阪・堺市の家族のもとに舞い戻った。家族へのメンツも何も捨てて、自分の生きる道としてものを書きたい。それには落ち着いた場所がいる。自伝『生きてきた道』に書いている。

 「直木賞を受賞した時、黒岩重吾は釜ヶ崎の木賃宿で小説を書いたと週刊誌などに書かれたが、まともな小説は一度も書けなかった。釜ヶ崎やその周辺は、住み難い場所ではなかった。だが生活費のための原稿を書いていると、小説を書く気力が湧かない。離れてこそ西成の生態は書けるのである

 生活を安定させるためにミナミのキャバレーに勤め始めた。宣伝文句を考える要員、というのが面白い。その後も化粧品会社のコピーライターや水道関連の業界紙に勤務しながら、空いた時間を執筆にあてた。猛烈に書いた。司馬遼太郎や寺内大吉が主宰する「近代説話」を紹介され参加したことも励みになった。

 そして昭和35年、チャンスがやってきた。「週刊朝日」「宝石」共催の懸賞に応募して佳作入選した作品が評論家の中島河太郎の目にとまり、書き下ろしの注文がきたのだ。

 初めての長編小説。刊行されれば店頭に並ぶ。睡眠を削って執筆に没頭。そうして書き上げたのが「休日の断崖」だ。これが直木賞候補となり、選を逃れたものの注目を集める。早速中央公論から書き下ろしの依頼が舞い込み、1カ月半で書いたのが「背徳のメス」。これも前回に引き続き直木賞候補になり見事、受賞を勝ち取るのだ。以後、殺到した注文をこなせたのは、修行時代に書いたものが大いに役立ったという。

 松本清張の登場以来、人気の高い社会派ミステリーの書き手として有望な書き手となっていくが、人気作家となってからも折に触れ飛田界隈には足を運んだ。

 「暫く釜ヶ崎の体臭に触れないでいると、何となく欲求不満に陥る」(『どかんたれ人生』)のだ。

 なぜか。それは自分の原点、という場所への自己確認か。それとも『飛田ホテル』の主人公がアパートのほのかな灯をみて、「霧の底にかたまり合って咲いているオオエビネの花のよう」に感じる重い郷愁だろうか。

 『さいごの色街 飛田』( http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480818317/ )で現状ルポした井上理津子さんは飛田の魅力をこう語る。

 「飛田は人をとことん受け入れてくれる懐の深さを感じさせるところが、多くの人を引き付ける。人生の幸せがどこにあるかが見えにくい時代。いつまで飛田は存続できるか。それも含めて注目され、黒岩作品も読まれるのではないか」と話している。   =続く

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【プロフィル】石野伸子 産経新聞特別記者兼編集委員。生活面記者として長らく大阪の衣食住を取材。生活実感にもとづき自分の足と感性で発見したホンネコラムをつづるのを信条としている。

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【石野伸子の読み直し浪花女】「浪花女的読書案内」と題した冊子に

 産経新聞の夕刊(関西圏)でも好評連載中の「読み直し浪花女」が冊子になり、「浪花女的読書案内」として発売されている。連載は大阪ゆかりの作家の作品の中に浪花女像を再発見しようとスタート(夕刊では平成24=2012=年11月から)。山崎豊子、織田作之助、河野多惠子ら28人の作家を取り上げ、冊子では、この中から26人分を再編成している。

 ノーベル賞作家の川端康成は故郷・大阪をどう作品に埋め込んだか。野坂昭如はなぜ大阪時代を語らなかったか、林芙美子の絶筆はなぜ大阪だったのか。石野伸子産経新聞特別記者・編集委員が思いがけない視点から名作を解読する。

 92ページ、1500円(税込み、送料別)。冊子の申し込みは、名前、住所、郵便番号、電話番号、希望の冊数を明記し、はがき(〒556-8666(住所不要))▽FAX06・6633・2709▽電子メール( naniwa@esankei.com )―のいずれかで「冊子 浪花女的読書案内」係へ。産経新聞販売店でも申し込み可。問い合わせは、産経新聞開発(06・6633・6062、平日午前10時~午後5時)。

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