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【石野伸子の読み直し浪花女】複眼のコスモポリタン陳舜臣(2)朱服點頭名漸馳 生計のため作家に 大ペルシャ詩を訳す夢

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大阪外国語学校に学んでいたころの陳舜臣
大阪外国語学校に学んでいたころの陳舜臣

 「回顧」と題する陳舜臣の漢詩がある。還暦を迎えたとき、自分の人生を詠んだもので自作漢詩集『風騒集』に収められている。

 七言律詩という形式で、7文字で1句をなし、2つの句がひとつのまとまり「聯(れん)」をなす。最初の首聯(しゅれん)に「若いころ私はいささか風雅を慕うこころはあったが、動乱の時代に逢い、他郷に学ぶという不安定な日を送った」(自釈)と書いた後、「頷聯(がんれん)」と呼ばれる3、4句に自身の青春をこう詠んでいる。

  青春過隙無人覚

  朱服點頭名漸馳

 「すきまをすぎる駒にたとえられるように、青春はまたたくうちにすぎ、ひとは私を知らず、私も時のすぎ行くのを知らなかった」

 「文学の賞をもらってから、ようやく名を知られたが、もうたそがれはじめていたのである」

 漢詩の“含蓄力”は深い。これら本人による自釈を読むと、自分には長い潜伏期間があったのだというため息が聞こえてくるようだ。

 陳舜臣が作家デビューしたのは昭和36(1961)年、37歳のときだった。「たそがれはじめていた」とはやや過剰な表現ではあるが、確かに決して早いデビューではなかった。

 戦後しばらく、陳舜臣は父親の仕事を手伝いながら、文章修行をするという時間を過ごした。

 現在、「陳舜臣アジア文芸館」(神戸市中央区)の館長をつとめる長男の陳立人(りーれん)さん(66)は、夜遅くまで机に向かっていた父親の姿をよく覚えている。

 「小さかったので何を書いていたかは知りませんが、父は勉強家だったと思います」

 そのころ、陳舜臣は机に向かって何を書いていたのか。

 戦争で研究者としての道は閉ざされたが、実はまだ好きな語学の研究にひたっていたのだ。戦前、大阪外国語学校(現・大阪大学)を卒業し、母校の研究所で辞書編集に携わったが、これは戦争で中断した。母校の70年史に、「西南亜細亜語研究所のころ」という文章を寄稿しているが、そこでは「インド語にかんする限り、私はあの時点で編纂を中止してよかったと思っている。インドとパキスタンが分離して独立し、それぞれの国語が大きく性格を変えたからだ」と書いている。

 その同じ戦時下で、陳舜臣はもうひとつペルシャ語の研究に熱中していた。外語2年のときからペルシャ語の授業が始まり、11世紀の大詩人オマルハイヤームの「ルバイヤート」を知り魅せられたからだ。膨大な詩集を、ペルシャ語の原典にあたりながら、細々と訳詩を試みる。それを社会人になっても、出版のあてもなく黙々と続けていたのだ。陳舜臣が念願の「ルバイヤート オマル・ハイアーム」を出版したのは平成16(2004)年のことだ。

 訳詩ではとても妻子が養えないことははっきりしている。やがて創作活動へと筆を進めていく。文学作品を書き文学賞に応募したこともある。作家デビューした後、何かの折にそのことが話題になった。当時の習作の話が出てきたとき、「私は活字になったもの以外は発表する気持ちはないのです」と作家は対談で述べている。

 実は「陳舜臣アジア文芸館」には未整理の資料が数多く保存されている。当時の習作新発見の期待も寄せられるが、立人さんは「未発表の作品と日記は決して世に出さないよう父から厳しく言われています」と笑う。貴重な文献になると思われるが、これは今後の研究者に委ねられることだろうか。

 さて、「せめてペン・マンとしての道を歩みたい」という思いを募らせた陳舜臣は、ミステリーを書くことを思いつく。あるとき、病気の妻の看病をしながら雑誌の軽い読み物に目を通したとき、もっと面白いものが書けるのではないか、と直感したことがきっかけという。

 読書は幼児期からの楽しみだった。とくに探偵小説は神戸で独特の発展をした。外国船で持ち込まれたものも多い。横溝正史も神戸出身だ。陳舜臣も江戸川乱歩に熱中し、大阪外語時代には英語の授業でコナンドイルに出合い、原書で読みふけった時期もある。

 物語の要素には事欠かない。人一倍乱世を生きてきたのだから。こうして、ユニークな中国人探偵が活躍する作品が誕生する。   =(3)に続く

     ◇

【プロフィル】石野伸子 産経新聞特別記者兼編集委員。生活面記者として長らく大阪の衣食住を取材。生活実感にもとづき自分の足と感性で発見したホンネコラムをつづるのを信条としている。

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