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【正木利和のスポカル】リタイアしてもなぜか人気 「つくらない彫刻家」の来し方行く末

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つくらない宣言をしたあとも人気の福岡道雄=神戸市中央区
つくらない宣言をしたあとも人気の福岡道雄=神戸市中央区

 つくらない彫刻家、福岡道雄(82)は、作らなくなってからも人気のある彫刻家である。

 2005年、「腐ったきんたま」という作品とともに「つくらない彫刻家」を宣言した。

 「僕がもっていたものは作りきってしまったから」

 というのが理由だ。

 しかし、その3年後には滋賀県立近代美術館、昨年は大阪の国立国際美術館で大規模な回顧展が開催されている。

 さらに、現在も神戸市中央区のギャラリーヤマキファインアートで「福岡道雄 《黒一色の景観から》」という個展が開かれているのである。

 今回、自らが携わる最後の展覧会というふれこみで、黒い繊維強化プラスチック(FRP)を使った風景彫刻をはじめ、FRPの板に「僕達は本当に怯(おび)えなくてもいいのでしょうか」「何もすることがない」といった文字を反復して刻み込んでゆく、福岡の後期を代表する作品、さらには1960年代のドローイングや70年代の写真といった珍しいものまで、18点が展示されている。

 人の世をすねているようでいて、どこかすがっているようでもあり。時を重ねるごとに変わってきた福岡作品。本人の話から、その変遷をたどってみると…。

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 大阪・堺市出身の福岡は、父親の仕事の関係から生後半年ほどで中国・北京に渡っている。「むこうでは道ばたの馬糞(ばふん)を拾って投げたり、悪さばかりしてた」

 そんなやんちゃ坊主(ぼうず)も9歳で敗戦を迎え、帰国せねばならなくなった。「行きは飛行機で2日ほどだったそうだが、帰りは馬車と船で2カ月ちょっとかかった。むこうではふだん中国語を使っていたせいで日本語があまりうまくなかったから、帰ってきたらいじめに遭ったね」

 建築家になりたくて、地元の工業高校に進んだが、学校がいやでのらりくらりしているうちに、その夢はしぼんでいったという。 

 「まあ性格として会社勤めは無理。集団がいやで」

 そのころ、彫刻家の白石正義に学んだが、美術大学の受験に失敗し、大阪市立美術研究所に入所した。「みんなデッサンがうまい。僕がまだ輪郭なぞってるのに、みんなは仕上がっている。で、女性事務員が僕を彫刻室に連れてった。僕も『こっちのほうがいいわ』と、見よう見まねで彫刻を作っていた」

 そのうち、研究室に古くなって使えない石膏(せっこう)がたくさんあることを知り、それを海水で固める作品を作ってみた。「SAND」という砂まみれの作品群だ。「みんな何カ月もかけて作るのが、僕は1週間に1個のペースでできた。それが20ほどたまって、大阪の画廊で個展をした。彫刻の個展というのはそれまでなかったから、20歳そこそこで有名になった」

 東京でも大きな画廊から声がかかり、60年代に入ると赤瀬川原平や山口勝弘らとのグループ展で全国的にもその名を知られるようになっていった。

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 60年代までは「反芸術」という時代の風潮のなかで仕事自体、「観念的」だったという。このころはドローイングもやれば写真もやった。それは彫刻とは何かという問いに向き合って一度、解体してゆく過程に生じた副産物だったのだろう。ところが、70年代に入ると、その60年代を自ら否定するように、具象を制作しはじめる。

 「抽象は先が見えている。開き直って具象の彫刻を毎日作ろうと思って」

 「42歳のとき、現代美術をやりきったと明確に思った。それで、前の畑や裏の池できょうしたこと、見たことを絵日記をつけるみたいに…」

 確かにそのころ作った風景彫刻は「朝(犬)」(1976年)や「草を刈る」(同)のような日常が題材となっているものが多い。「でも3年くらいでいやになった」

 あきっぽいくせに凝り性だ。ヘラブナ釣りにはまったときは1週間に5日は釣りに出かけた。「フナ釣りはからだによくない。ずっと同じ格好をしているから小便したら血は出るし、目も見えなくなった…」

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 90年代には「僕の箱(未完)」と題した自分の棺おけを発表する。「それは(死を迎えた)自分が入って完成するんだけれど、献体をするから、僕は棺おけには入れないんですよ。だからいつまでも完成しない」

 さらに、95年の阪神大震災を機にFRPの板に文字を刻む彫刻が生まれた。

 「最初、キリでサインの練習してたんやけど、ルーター(工具)を見つけて、これいける、と」

 反復する文字を丹念に追うと、たまに人の悪口などが入っていたりもするからおもしろい。そうして「何もすることがない」「何をしても仕様がない」と刻みつけた作家は、2005年に制作放棄を宣言する。

 「すっと終われたね。何かしたい気持ちもなかったし。しかし、こんなに長生きするとは思っていなかった。僕、21歳のとき、占い師に36歳で死ぬといわれて、ほんまに死ぬ思ってましたから」

 もちろん、長い余生はまだ続く。「今回の展示には50年も前の作品がある。それを見てたら、確かに俺が作ったんだ、という気はあるけど、もう懐かしさもない」「自分がかかわる最後の展覧会? まだこれから10年生きるかもしれんし。知ったことじゃない」

 ちゃぶだいをひっくりかえして、いたずらっぽく笑う。実際、福岡は「腐ったきんたま」を発表したあとも「つぶ」という小品群を制作している。

 「つくらない彫刻家」は、本当はいまも「生きる」ということと「つくる」ということを、模索しつづけているに違いない。

 【プロフィル】正木利和(まさき・としかず) 産経新聞文化部編集委員。大阪新聞から産経新聞社会部、運動部、部長を経て現職。運動部歴25年目となった秋、念願かなって美術担当に。好きなものは以下の通り。富岡鉄斎の絵、ジャランスリワヤの靴、よく墨のおりる端渓硯(たんけいけん)、勇敢なボクサー、寡黙な長距離走者。当コラムはスポーツとカルチャーの話題を中心にすることからネーミング。おみしりおきを。 

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