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【石野伸子の読み直し浪花女】複眼のコスモポリタン陳舜臣(1)台湾ルーツ「枯草の根」 語学研究所を辞め16年

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陳舜臣の人生は起伏の多い道程だった
陳舜臣の人生は起伏の多い道程だった

 陳舜臣(ちん・しゅんしん)は中国の歴史小説を数多く書いた。作品はいまも店頭にずらりと並び版を重ねている。中国語の原典を読みこなす語学力、歴史を解読する考察力、ドラマを構築する筆力。いずれも台湾をルーツにもつ華僑の家に生まれ、時代に翻弄された体験に鍛え上げられたものだろう。90歳で亡くなるまでずっと神戸市に住み神戸を愛した作家だが、戦前の大阪で学んだ時期が作家人生に大きな影響を与えている。まずはそのあたりから陳舜臣ワールドに分け入ってみよう。

 陳舜臣が商業誌に初めて書いた文章は、大阪の文芸誌「新文学」(全国書房刊)の昭和20(1945)年3月号に掲載された「印度現代詩抄」。インドの詩を翻訳紹介したものだが、目次に陳舜臣と並んで織田作之助「猿飛佐助」とあるのが目を引く。

 陳舜臣は当時、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)の印度語部を卒業し、母校の「西南アジア語研究所」の助手としてヒンディー語辞書編集にたずさわっていた。

 その研究所の同僚が西夏語研究の第一人者、石浜純太郎と親しく、一緒に石浜邸に出入りするうち、作家の藤沢桓夫(ふじさわ・たけお)と知り合った。藤沢は石浜の甥っ子で大阪文壇のリーダー的存在、「新文学」の顧問を務めていた。

 「『新文学』は戦中、中央公論など東京の雑誌がほとんど廃刊に追い込まれる中、珍しく関西から発行を続けた貴重な雑誌。検閲の厳しさから逃れるため大東亜共栄圏を意識した共栄圏文学を大切にしており、藤沢は外語関係者に興味をもったでしょう。その縁で陳舜臣の翻訳が掲載になったのは興味深い」

 当時の事情に詳しい関西大学教授(日本近代文学)の増田周子さんはそう解説する。

 陳舜臣はいずれ母校で研究者の道に進みたいという希望をもっていた。平穏な時代なら、そのまま若き研究者の順調なデビュー作になったはずだ。が、時代はそれを許さなかった。雑誌発売まもなく母校は空襲で全焼、さらに神戸の実家も全焼した。港に近い海岸通りにあった三階建ての華僑商館。後に推理長編「三色の家」のモデルになった家だ。

 さらに、終戦で陳舜臣の身分は大きく変化した。植民地・台湾出身の両親のもとに生まれた陳舜臣はそれまで日本国籍だったが、終戦後に籍は中国に移る。当時、外国人は国立大学の教員にはなれなかった。嘱託という道もないではないが、身分は不安定だ。自ら退職を決意した。

 自伝的小説「青雲の軸」には、終戦間近の揺れる心境が友人との会話でこうつづられる。

 「きみは研究をつづけるんだね?」

 「そういうわけにはいかんだろう」

 「どうして?」

 「どんな形式で戦争が終わるのかな? おそらく台湾は中国へ返還、朝鮮は独立となるだろう。すると、ぼくらは中国人になる」

 「そうだ。中国に復帰する。祖国の懐に抱かれるわけだ」

 「ぼくの勤めている学校は国立だから、職員は国家の官吏だ。外国人は任官できない」

 「そうか。助教授、教授というコースは許されないんだな。いいことばかりがあるわけじゃないね」

 「は、は、は…」

 研究所にいなくても、研究はできる。心のなかでそう叫んだ。

 陳舜臣の人生はこうして常に一筋縄ではいかない。その後作家デビューするまでに16年の歳月を要している。曲折の連続だ。

 終戦直後には自分のルーツを知りたいと台湾に渡った。昭和21年3月のこと。台北郊外にある親戚の世話になり、やがて地元に新設された中学校の英語教師になった。ところが翌22年2月、台湾の人々の多くの夢を砕く「2・28事件」が起きる。国民党政府による住民の弾圧事件は、その後の台湾の運命を暗転させたもので、事件を間近に見た陳舜臣は、教員生活を打ち切り、日本に帰国することを決意する。

 3年半の台湾生活。日本の敗戦と台湾の混乱。その後、陳舜臣は実家の仕事を手伝いながら、「せめてペン・マンとしての道を歩みたい」(自伝『道半ば』)と、夜は机に向かう日々を過ごした。

 そこから昭和36年に「枯草の根」で作家デビューするまで、10年あまりの二足のわらじが続いていく。   =(2)に続く

     ◇

【プロフィル】石野伸子 産経新聞特別記者兼編集委員。生活面記者として長らく大阪の衣食住を取材。生活実感にもとづき自分の足と感性で発見したホンネコラムをつづるのを信条としている。

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