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【千田嘉博のお城探偵】CASE10 地震に学んだ伏見城 復興と備え 今に伝え

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伏見城の一角には、想像で復元された大天守(右)と小天守が建つ(本社ヘリから)
伏見城の一角には、想像で復元された大天守(右)と小天守が建つ(本社ヘリから)

 1591(天正19)年に豊臣秀吉は、関白の位と豊臣政権の「公」の城・聚楽第(じゅらくてい、京都市上京区)を甥(おい)の豊臣秀次へ譲った。翌年に秀吉は風光明媚(めいび)な伏見の指月(しげつ)に屋敷を建てた。秀吉の穏やかな隠居所として伏見城は生まれた。ところが秀吉が進めた文禄・慶長の役や、1595(文禄4)年に起きた秀次の切腹と聚楽第の破壊によって、伏見城の政治的位置は一変した。

 聚楽第がなくなったため伏見城が豊臣政権の「公」の城になった。豊臣の城といえば大坂城が名高いが大坂城は豊臣の「私」の城だった。だから豊臣政権に従った大名たちは、最初に聚楽第の周囲に屋敷をつくり、その破壊後は伏見城下に屋敷を建てた。1594年頃から秀吉は指月伏見城の改修をはじめ、1596年頃までに伏見城は政権の城としての規模を整えた。

 しかし、1596年閏(うるう)7月に起きた「慶長伏見地震」によって、指月伏見城は御殿が倒壊するなど大被害を受けた。そこで秀吉は同じ伏見の木幡山(こはたやま)に場所を移して新たな伏見城を築くよう命じた。当時、諸大名は文禄・慶長の役のため朝鮮半島で戦い、あるいは肥前名護屋(ひぜんなごや)城(佐賀県唐津市)に在陣していた。長引く遠征に伏見築城が加わるのは、大名たちにとって重い負担だった。

 最優先で伏見城の再建を進めた秀吉に対して、大名とその家臣たちは不満を募らせた。木幡山伏見城の工事現場は殺伐としていたらしい。徳川家康は工事現場で問題が起きて、豊臣の武士に徳川の武士が殺されても我慢せよと法度(はっと)で定めたほどだった。そうした工事の末にできた木幡山伏見城は豪華を極め、石垣や堀も堅固だった。大坂城と比べてつくりに遜色はなく、木幡山伏見城は政治拠点と同時に強力な軍事拠点であった。

 木幡山伏見城の周囲に諸大名は改めて屋敷を建設した。そうした大名屋敷のひとつに前田利家・利長の屋敷があった。前田屋敷は大手筋に面した一等地にあり、一辺が200メートルに達したほどの巨大さだった。2015年にその一部を京都市が発掘して、驚くべき成果があった。

 調査を担当された奥井智子さんのご教示によれば、前田屋敷の敷地は少なくとも2メートル以上にわたって突き固めた人工地盤の上に建っていた。耐震性を高めるには敷地地盤の強さが大切だと利家たちは考えたのだ。それだけでもすごいのに、御殿の柱を支えた基礎の石・礎石の設置位置については、固い人工地盤をもういちど掘り返し、改めて石と粘土を互層にたたき締めて礎石の沈下を防いでいた。

 同様の工法は伏見城内でも見つかっており、木幡山伏見城と大名屋敷は当時考え得る最善の地震対策を重ねた。前田屋敷の発掘成果は、戦国の人びとがいかに地震から立ち上がり、つぎの地震に備えるくふうを凝らしたかを、私たちに伝えてくれている。

 現在、2016(平成28)年の熊本地震で大きな被害を受けた熊本城の復興が進んでいる。私も文化財修復部会委員として議論に加わっているが、特別史跡として史実にもとづいた復元はもちろん、石垣の耐震強度を高め、安全に見学できるくふうを重ねている。何百年もの後に、熊本城の復興はどう評価されるだろう。

(城郭考古学者)

     ◇

【用語解説】伏見城

 豊臣秀吉が1592(文禄元)年、指月丘に隠居所として築き始めた屋敷がはじまり。本格的な城郭に改築するが、慶長伏見地震で大きな被害を受け、近くの木幡山に改めて築城。1600(慶長5)年、関ケ原の戦いを前に東西両軍の攻防の舞台となり、主要な建物が焼失。その後、徳川家康が再建し、征夷大将軍の宣下を伏見城で受けた。1623(元和9)年に廃城。1964(昭和39)年、城跡の一角に想像による天守が建てられた。

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