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【石野伸子の読み直し浪花女】梶井基次郎「檸檬の伝説」(6)酒好き俗な大阪男を…明治の女子教育が正した

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昭和11年。「青空」同人らに囲まれる母・ひさ(中央)(日本近代文学館提供)
昭和11年。「青空」同人らに囲まれる母・ひさ(中央)(日本近代文学館提供)

 大阪・南部の住宅地、阿倍野区を南北に走るあべの筋。その中間あたりの道路脇に「梶井基次郎旧宅跡」という小さな案内板が建っている。

 大阪市阿倍野区王子町2丁目。「大阪市顕彰史跡」と記された案内板には「短い生涯の中で20数度の転居を行い、ここから少し東のところにある家で永眠した」とある。

 看板のある表通りから細く短い路地が続いている。梶井基次郎はその一角にある長屋で31歳の生涯を終えた。

 重い病をかかえた基次郎は27歳で故郷の大阪に帰った。そのころ両親は大阪中心部の家をたたみ、新興の長屋が並ぶ王子町で細々と暮らしていた。当初実家に身を寄せた基次郎は、手狭な実家から郊外にある長男の家(兵庫県伊丹市)に移り、いよいよ衰弱した昭和6(1931)年10月に実家から歩いて2分のその長屋に移ってきた。亡くなる半年前のことだ。

 四畳半に玄関と狭い台所だけの家に、自分の名前の表札を出して喜んでいる。「言語道断の家ですが、はじめて家を持った気持は格別です。これから小説にせいを出します」と友人に書き送っている。

 そこで書いたのが「のんきな患者」。初めて文芸誌(中央公論)に掲載され、小林秀雄ら多くの人の称賛を受けた作品だ。

 自身を投影した肺の悪い吉田が主人公。吉田の住む町は「大阪の市(まち)が南へ南へ伸びて行こうとして(略)小さな長屋がたくさん出来て、野原の名残りが年毎にその影を消して行きつつある風の町」なのであったが、そこでは肺病で死ぬ話が多く、さまざまな迷信が渦巻いている。

 生きたメダカを毎日5匹ずつ飲む娘、肺病で死んだ人間の脳みその黒焼きが効くと言い張ってそれを置いていく女。吉田はそうした話を聞くたびに嫌な思いをするが、やがて思い知る。

 「病気というものは決して学校の行軍のように弱いそれに堪えることの出来ない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールに行くまではどんな豪傑でも弱虫でもみんな同列にならばして嫌応(いやおう)なしに引摺ってゆく-ということであった」(「のんきな患者」)

 これまでの短編同様、鋭敏な観察眼が随所に光るが、底流に流れる優しさや諧謔(かいぎゃく)は格別だ。それまでの作品の「余りに文学的な」というものから、「人間的な方へ一歩も二歩も踏み出し、本格的小説になった」と作家の瀧井孝作は評している。

 その転換には、大阪という町が大いにかかわっている。

 このころ友人たちに宛てた手紙には、生まれ故郷・大阪に対する基次郎の微妙に変化した思いが吐露されている。

 「以前は西鶴など下賤の親方と思っていたが今はずっと面白い」と言い、「古い大阪はこの頃僕の最も好むテーマだ」と書いている。

 「評伝梶井基次郎」を書いた大谷晃一は、梶井生誕百年記念として平成13(2001)年に大阪市立中央図書館(大阪市西区)で開かれた記念展示会に、「大阪に回帰した梶井基次郎」としてあいさつ文を寄せている。

 「父親の持っていた俗を嫌い、商売の町大阪の俗を嫌った。ところが、王子町に帰って大阪の下町に生きる人びとのことを身近に知った。死の際に、大阪に回帰したのである」

 ここに書かれた「父親の俗」とは酒好きで女好き、家庭を顧みない遊び人な一面だ。母ひさはそのため人一倍苦労した。しかし明治の女子教育にふれ、幼稚園の保母も勤めた経験をもつ母親は教育熱心で、子供たちをみな厳しく育てた。東京帝大に進んだ基次郎をはじめ、みな高学歴。兄弟は当時珍しかったラジオや無線技術に通じ周辺では珍しいインテリ一家だった。

 そのひさが誰よりも期待をかけたのが基次郎だっただろう。やりくり算段で学資を送り続け、病床の息子を最後まで面倒みている。残された看護日記には朝はパン、チーズ、昼はかき雑炊、夜は鯛のさしみ、と至れり尽くせりの毎日がつづられている。

 このひさに「大阪の女を見る」というのは、近代日本文学研究者の鈴木貞美さん(71)だ。どういうことだろう。   =(7)に続く

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石野伸子 石野伸子 産経新聞特別記者兼編集委員。生活面記者として長らく大阪の衣食住を取材。生活実感にもとづき自分の足と感性で発見したホンネコラムをつづるのを信条としている。

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