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【千田嘉博のお城探偵】CASE9(下) 有岡城の戦い 村重と妻 乱世の生き様

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有岡城の上臈塚砦跡付近にあたる墨染寺。落城時に犠牲となった女性たちを弔ったとされる女郎塚がある(渡部圭介撮影)
有岡城の上臈塚砦跡付近にあたる墨染寺。落城時に犠牲となった女性たちを弔ったとされる女郎塚がある(渡部圭介撮影)

 前回、兵庫県有岡城のどこに「だし」さんがくらしたかを考えた。しかし有岡城や、だしさんがたどった運命については詳しくふれられなかった。そこで今回は、有岡城とこの城に関わった人びとの運命を考えたい。だしさんの夫であった荒木村重(むらしげ)は、織田信長の家臣になって摂津国を平定し、1574(天正2)年に本拠として有岡城を築いた。

 有岡城は城下町全体を堀や土塁で守った「惣構(そうがま)え」を備えた。城下の防御施設を惣構えと呼び、戦国時代の城に広く認められた。信長の清須(きよす)城・小牧山(こまきやま)城(ともに愛知県)や、岐阜城(岐阜県)も惣構えをもった。また畿内や畿内近国では自治的な村や有力な寺院も惣構えを築いた。有岡城の惣構えを日本最古とする見解もあるが、室町期以降に一般的だった惣構えのひとつと考えるのがよいと思う。

 さて信長配下の武将として頭角を現した村重だったが、1578(天正6)年7月に信長に謀反して有岡城に籠城した。村重は信長の何に謀反するほどの疑念をもったのか。その理由はわからない。11月になって信長は村重方の支城を開城させながら有岡に迫った。12月に信長は有岡城を強襲した。しかし惣構えを破れずに多くの親衛隊を失った。そこで信長は作戦を変え、有岡城の周囲に砦(とりで)と堀を掘って封鎖した。

 孤立した有岡城は善戦し、およそ1年の籠城に耐えた。ところが1579年9月2日の夜、村重はわずかな家臣とともに有岡城を脱出して尼崎城(兵庫県)に逃れた。だしさんや家臣の妻子は取り残された。

 村重の離脱を察知した信長軍は9月12日に砦を増強した上で、10月15日に内応者の手びきを得て総攻撃を開始した。信長軍は惣構えを破って城下に突入し、侍町に放火して有岡城を「はだか城」にした。さらに金掘衆を投入して、地下通路から城へ突入する作戦を進めた(『信長公記』)。追い詰められた有岡城は11月19日に開城し、城に残っただしさんたちは全員人質になった。

 信長は、だしさんたち妻子や家臣を助命する代わりに村重に降伏を迫った。しかし村重は拒否した。その頃、だしさんは村重につぎのような歌を送った。「霜がれに 残りて我は 八重むぐら 難波の浦の 底の水屑(みくづ)に」。霜枯れに残ったわたしはすっかり荒れ果て、難波の浦の底のごみのようになってしまった…彼女の心情は察して余りある。

 謀反して降伏勧告にも応じない村重に対する信長の怒りはすさまじかった。12月13日に尼崎近郊に美しく正装した村重の主だった家臣の妻子122人を引き出して磔(はりつけ)にし、鉄砲あるいは槍(やり)・長刀(なぎなた)で処刑した。さらに下級武士124人と下級武士の妻子388人を、4軒の家に閉じ込めて焼き殺した。

 12月16日には、だしさんをはじめとした荒木一類の妻子三十余人を車に乗せて洛中を引き回し、六条河原で斬首した。だしさんは車から降りるときに、帯を締め直し、髪を高々と結い直して、小袖(こそで)の襟(えり)を自ら広げて切られた(『信長公記』)。

 その後も村重は戦い、敗れると逃げて隠れて亡命して生き延びた。信長の死後に秀吉が天下人になると、村重は秀吉に茶人として登用された。だしさんと村重、それぞれの生き方を、みなさんはどう思われただろうか。(城郭考古学者)

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