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【千田嘉博のお城探偵】CASE9(上) 有岡城の「だし」 村重 最愛女性の住居に

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JR伊丹駅西側に残る有岡城の主郭部
JR伊丹駅西側に残る有岡城の主郭部

 わたしは「だし」さんのことがずっと気になっていた。だしさんは戦国時代に兵庫県の有岡城主であった荒木村重(あらき・むらしげ)の妻だった。彼女について記した『立入左京亮宗継入道隆佐記(たていりさきょうのすけむねつぐにゅうどうりゅうさき)』は「だし殿と申して、一段の美人。異名は今楊貴妃(ようきひ)」とした。また『信長公記』は「きこえある美人」と記した。だしさんは、楊貴妃にたとえられるほどの美しい人だった。

 ■奇妙な名前

 それにしても「だし」とは、少し奇妙な名前である。その名前の由来も立入宗継の記録にあって、有岡城の大手の「だし」に置いた女房だったからという。なるほど豊臣秀吉が愛した京極竜子(きょうごくたつこ)は伏見城松の丸に住んだので「松の丸殿」と呼ばれた。それと同じように有岡城内の「だし」にあった御殿に住んだ彼女は「だし殿」と呼ばれたのだった。

 わたしが、だしさんを気にしていたのは、彼女が美人だったからではない。お城探偵として、彼女がくらした有岡城の「だし」とは何かを知りたかったからである。歴史学者の磯田道史さんは「城の大手の馬出(うまだ)し曲輪(くるわ)に置かれた妻」とした(磯田道史『日本史の内幕』中公新書)。つまり「だし」を城の「馬出し」と考えたのである。

 馬出しとは、城の出入り口前の堀の対岸に設置した空地で、効果的な反撃用出入り口だった。馬出しは武田信玄や小田原の北条氏が戦国時代から用い、江戸時代の城にもあった。だから戦国時代の有岡城に馬出しがあっても不思議ではないように一見思える。

 しかし城郭考古学の見地からいうと、信長の城には馬出しは認められず、信長が活躍した時代の畿内の城にも明確な馬出しはなかった。だから「だし」を馬出しと解釈するのは難しい。そもそも戦国時代の馬出しは城兵が集結した広場だったから、御殿空間にはなり得ない。

 ■戦国の愛

 もっと大きな問題もある。それは戦国の愛である。本丸などから外に突き出した出入り口・馬出しは、戦いになれば攻防の的になった最も危険な場所だった。そこに最愛の女性を住まわせたなんて!村重のだしさんへの気持ちを疑わせる話ではないか。本当の愛はそこにあったのか。いよいよ「だし」を正しく読み解かなくてはならない。

 こういうときに頼りになるのが『日葡(にっぽ)辞書』である。『日葡辞書』は1603(慶長8)年にキリスト教の宣教師が編纂(へんさん)した日本語-ポルトガル語辞書。さっそく「だし」を調べてみると、(1)武具の飾り(2)家の外へ少し突き出した部分(3)城の少し外側につくった堅固な場所-とある。また「とりだし」として、(4)敵を防いだ堡塁(ほるい)(5)城の外側へほかのところより突き出たところで、畿内では「だし」という-とある。

 ■城の正面

 もうおわかりだろう。有岡城の「だし」の本当の意味は、用例(5)の城壁が外へ突き出したところが正しい。つまり城に迫った敵の側面に弓矢や鉄砲を放って反撃するために塁線が屈曲して張り出した「横矢掛け」が「だし」の意味だった。そうした塁線の屈曲を備えた曲輪に、だしさんはくらしていた。

 有岡城の大手の「だし」だから、だしさんの住まいは城の正面にあって日当たりがよく、横矢が効くほどに眺望もよかったとわかる。だしさんは村重に愛され、大切にされた女性だったと城郭考古学から自信をもっていえる。   (城郭考古学者 千田嘉博)

     ◇

 【用語解説】有岡城

 元は伊丹城と呼ばれ、南北朝時代の文和2(1353)年の文献にその名がある。天正2(1574)年に荒木村重が攻め落とし入城、有岡城と名を変え改修を行った。家臣が住む侍町と、町人が住む町屋地区を含む東西0・8キロ、南北1・7キロを堀と土塁で囲んだ「惣構え」の城で、北と西、南の要所にそれぞれ「岸の砦(とりで)」「上臈塚(じょうろうづか)砦」「鵯塚(ひよどりづか)砦」を築いた。

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 【プロフィル】千田嘉博(せんだ・よしひろ) 奈良大学教授。昭和38年、愛知県生まれ。奈良大文学部卒業。大阪大学博士号取得(文学)。国立歴史民俗博物館助教授、奈良大助教授などを経て現職。平成26年4月から28年8月まで奈良大学長を務めた。専門は城郭考古学。27年、浜田青陵賞受賞。NHK大河ドラマ「真田丸」で真田丸の復元考証を担当した。

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