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【千田嘉博のお城探偵】CASE8 安土城空白の一日 信長の天主 誰が焼いた?

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安土城天主台の石垣。西側は天主が焼け落ちたときの影響で石材の劣化が著しい(筆者撮影)
安土城天主台の石垣。西側は天主が焼け落ちたときの影響で石材の劣化が著しい(筆者撮影)

 織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市)は多くの謎に包まれている。安土城は1576(天正4)年正月中旬から土木工事をはじめ、着工から3年後の1579(天正7)年に信長は天主に引っ越した。細かな内装工事を含めた最終的な完成は1581(天正9)年9月で、翌年6月2日に本能寺の変は起きたのだから、安土城が完全な姿で存在したのは、わずか9カ月間にすぎなかった。これでは謎が多いのも当然である。

 ■町は大混乱

 本能寺の変の知らせは、同日中に安土に伝わった。明智光秀の謀反によって信長と息子の信忠が亡くなって、町は大混乱に陥った。その日の夜に滋賀県彦根市に領地をもつ山崎源太左衛門が、安土城下の屋敷を焼いて逃げた。翌6月3日には城の留守役の蒲生賢秀(がもう・かたひで)が、信長の妻たちとともに退去した。退去の際に信長の妻たちは城を焼くように意見したが、賢秀は信長が心を尽くした城を燃やせないと断った。

 そのため光秀は5日に無傷の安土城に入城した。安土城に入った光秀は、天下人の権威を身にまとい、安土城の金銀を家臣や公家、京の寺院に配った。信長は金銀を天主に保管したから、光秀が配った金銀も天主にあったものだろう。8日に城を出た光秀は13日に山崎で秀吉軍と戦って敗れ、14日に落ち武者狩りにあって死去した。

 ■成り立たぬ放火説

 安土城を守備した明智秀満は、14日に光秀の敗北を知って城から出陣した。このとき秀満が安土城に火をつけたとする史料がある(『惟任(これとう)退治記』)。しかし安土城天主が焼けたのは15日で(『兼見卿(かねみきょう)記』)、その日に秀満は坂本城(滋賀県大津市)に籠城して秀吉軍と戦い自害した。だから秀満放火説は成り立たない。

 もう一人、放火犯とされたのは織田信雄(のぶかつ)だった。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、信雄が城と屋敷を焼くように命じ、城下も焼かせたとした(『イエズス会日本年報追加』)。しかし信雄犯人説にも疑問がある。安土城の発掘調査によって、炎上したのは天主や城の中心部だけだったと判明して、フロイスの記述は事実と矛盾した。そもそもフロイスがこの記録をまとめたのは、安土から遠く離れた口之津(くちのつ=長崎県南島原市)で、本能寺の変から4カ月もたってからだった。

 安土のイエズス会関係者も6月4日に避難して、天主炎上を直接見ていなかった。だからフロイスの記述は長崎に時間がたってから伝えられた風聞を急ぎ報告に追加したもので、全面的には信用できない。領国伊賀の動揺を抑えるのにも苦心していた信雄が、明智軍の撤退から間髪を入れずに安土を掌握できたとは思えない。伊賀から近江に出陣し、ほかの武将と比べて安土の近くにいたので、放火の濡れ衣を信雄は着せられたのではないだろうか。

 ■狙われた財宝

 史・資料を横断的に見ていくと、安土城天主の火災は明智軍が城を出て、織田方が城を確保するまでに起きたとわかる。つまり安土城を守備する兵も管理する人もいなくなった一瞬に火災は起きた。そうした状況から判断すると、空白の一日に安土城に侵入した掠奪者の破壊のなかで、天主が焼け落ちたとするのが穏当である。安土城の天主には、なお金銀や財宝が残されていただろう。だから狙われた。6月16日に秀吉が数万の軍勢を率いて安土に駆けつけたとき、もう信長の天主はなくなっていた。(城郭考古学者 千田嘉博)   =この記事は平成30年2月20日の産経新聞に掲載されたものです

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 【用語解説】安土城

 織田信長が琵琶湖の東岸にある安土山に築き、歴史上初めて大規模な天主を設けた。城跡からは金箔(きんぱく)が施された瓦が出土している。

不等辺八角形という複雑な形をしている天主台の上にあった天主については、信長に仕えた太田牛一やイエズス会の宣教師が記録に残している。千田氏は石垣から建物が張り出した懸け造りになっていたと推察している。

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 【プロフィル】千田嘉博(せんだ・よしひろ) 奈良大学教授。昭和38年、愛知県生まれ。奈良大文学部卒業。大阪大学博士号取得(文学)。国立歴史民俗博物館助教授、奈良大助教授などを経て現職。平成26年4月から28年8月まで奈良大学長を務めた。専門は城郭考古学。27年、浜田青陵賞受賞。NHK大河ドラマ「真田丸」で真田丸の復元考証を担当した。

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