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【歴史インサイド】平安京に馬丸ごと1頭を埋葬…いったい誰が?尽きぬ浪漫

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埋葬された馬の骨。平安京跡から出土したのは初めて=京都市下京区(元興寺文化財研究所提供)
埋葬された馬の骨。平安京跡から出土したのは初めて=京都市下京区(元興寺文化財研究所提供)

 京都市下京区の平安京跡から、馬を1頭丸ごと埋葬した跡が出土した。調査を担当した元興寺(がんこうじ)文化財研究所(奈良市)によると、平安京では初めての例だという。律令制度の下で都の中で人や家畜の埋葬が禁じられていた京内。出土場所が武家の棟梁(とうりょう)源氏の“聖地”ともいえる区域だっただけに、専門家は武士が埋葬した可能性が高いと指摘する。では具体的に誰が埋葬したのか。当時の社会情勢からひもといてみる。(園田和洋)

清和源氏の聖地に別の一族が

 出土した場所は、現在の五条通(当時の六条坊門小路)と油小路通の交差点から南へ数十メートルの住宅地(京都市下京区)。平安京では左京六条二坊十四町にあたる。

 近くに「八幡太郎」の名で知られる平安時代後期の武士・源義家の父、頼義が建てた若宮八幡宮や、源義経の邸宅跡にあった井戸とされる左女牛井(さめがい)跡も残る、清和源氏の間では長らく聖地とされてきた。

 ところが、後白河法皇が今回の調査地の南隣・13町に六条院(長講堂)を建てると、院の近臣として活躍した源仲国(なかくに)が14町に屋敷を構える。仲国も源氏なのだが、清和ではなく、宇多源氏の流れをくみ、「平家物語」にも登場する。

 話はこうだ、高倉天皇に見初められた小督局(こごうのつぼね)だったが、天皇の中宮(妻)・徳子の父、平清盛に嫌われて追い出され、嵯峨に隠れ住む。それを嘆き悲んだ天皇から小督を連れて帰るのを命じられたのが、仲国だった。

 仲国は宮中では小督が琴が弾くときは、笛の伴奏役として召し出されていたため、馬に乗り嵯峨に探しに出る。すると、月夜の晩にかすかに聞こえてきた琴の音の先に小督の姿が…。

 仲国は鎌倉時代の公家で、歌人の藤原定家の日記「明月記」では、妻の起こした騒ぎがもとで建永元(1206)年、都を追放されて以後、自宅は火災で焼失する。

 今回、マンション建設に伴い昨年までに約250平方メートルを調査した結果、13世紀初頭の火災の痕跡を示す陶磁器とともに焼け焦げた赤い土が出土し、定家の日記を裏付けるかたちとなった。

珍しい馬の埋葬

 馬の遺構は仲国邸の火災跡の上層から出土した。東西2・1メートル、南北1・2メートル、深さ36センチの穴から馬1頭の頭部や前脚、後ろ脚の骨が体形に沿うように出土した。

 骨を鑑定した東海大の丸山真史講師によると、性別は不明だが、5~7歳の働き盛りの馬で、「やや頭の大きい木曽馬のような、以前からいる通常の種類と大差はない。武士の間で広まり、宮廷や貴族の間にも少なからずいたような馬だろう」と話す。

 平安京では1頭分が埋葬された例はなく、頭部のみを水などに関わる祭祀で使う慣習があったことから、道路側溝跡などから頭の骨だけが見つかることはある。だが、その場合は頭以外は食肉に使われるために、1頭分の骨が残ることはなかったのだ。

 この点について平安京を数多く発掘調査した近畿大の網伸也教授(考古学)によると、馬を埋葬したのとほぼ同時期の京内の屋敷跡から、人が埋葬された遺構がいくつか出ているのだという。

 その上で、「京内で埋葬することは貴族の法律である律令で禁じられていたが、武家の世になり、律令の影響が希薄になると、京内で人を含め埋葬遺構が出てくるのがちょうどこのころ」と説明する。

 馬の埋葬は、蔀屋(しとみや)北遺跡(大阪府四條畷市)▽上代町(かみだいまち)遺跡(熊本市)▽本郷野開(のびらき)遺跡(福岡県大刀洗町)-など古墳時代にはある.

 また馬に関する遺構・遺物に詳しい千葉県船橋市の飛ノ台史跡公園博物館の栗原薫子副館長が「関東周辺では武田館など戦国時代の埋葬例はあるが、鎌倉時代の屋敷内から見つかった例はどうだか…」と話すなど平安京内だけではなく、全国的にも珍しいケースといえそうだ。

承久の乱に関与?

 では誰が馬を埋めたのだろうか。

 馬の骨と同時に銅銭を入れた同時期の甕(かめ)も出土した。ただ底だけが残り、周辺に銅銭が散乱していた。同研究所の佐藤亜聖主任研究員は「甕を土中から強引に引き抜いた状況から、馬を飼っていたのは承久の乱にからんだ武士だったかもしれない」と推測する。

 鎌倉幕府3代将軍、源実朝が建保7(1219)年に暗殺されると、幕府と後鳥羽上皇との関係は急速に不安定に。その結果、暗殺から2年後に起きたのが承久の乱だった。

 後鳥羽上皇が軍事力を組み立てる中でクローズアップされるのが、幕府と朝廷の関係を取り持つために院の近臣の身分も持つ幕府御家人の存在だ。

 当時は幕府から御家人が京都に、朝廷から高級貴族が鎌倉に赴くなど公武が共存を図っていた時代。今回の馬の遺構は、幕府重臣の京都での拠点だったとも考えられる。

 中世武士団に詳しい野口実京都女子大名誉教授は、「屋敷内での馬の埋葬は関東でも例がなく、幕府の関係者ではない可能性も考えられる」として清和源氏の流れをくむ幕府重臣ながら、文学の知識・才能から上皇の近臣でもあった源光行(みつゆき)の可能性を指摘する。

 光行は承久の乱時には京都にいて、上皇側に従ったために乱後は幕府から罪を追及されるが、多くの幕府関係者の嘆願で刑を逃れている。

 野口名誉教授は「源仲国の弟で、実朝の暗殺時に一緒に殺害された仲章(なかあきら)も兄の代わりに14町に住んでいた可能性が十分あるので、馬を扱う市場関係者らも含めて幅広く考える必要がある」と語る。

 貴族の治世から武士の世へと移った歴史を象徴するかのような馬の遺構。専門家だけでなく歴史ファンの興味は尽きない。

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