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【石野伸子の読み直し浪花女】梶井基次郎「檸檬の伝説」(2)小林秀雄、川端康成…大御所から絶賛「青空」 文春・新潮でなく「買って読む義務」同人誌に発表

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作品集「檸檬」初版本。死の8カ月前に完成した(日本近代文学館提供)
作品集「檸檬」初版本。死の8カ月前に完成した(日本近代文学館提供)

 大正14(1925)年1月、梶井基次郎(かじい・もとじろう)は同人誌「青空」創刊号に「檸檬」を発表し、念願の“作家デビュー”を果たした。が、作品はまったく注目を集めなかった。

 当時、文春系「文芸時代」や新潮系「不同調」、プロレタリア文学運動機関紙「文芸戦線」、また各大学や卒業生らによって多彩な同人雑誌が発刊されていた。雑誌は著名作家らに送られ、そこから注目されて文壇へ飛び出すということもしばしばあったが、梶井はあえて「青空」を文壇作家らに送るようなことをしなかった。「彼らはわれわれの雑誌を買って読む義務がある」というのが梶井の主張だった。

 同人らは意気軒高で、「青空」は順調に号を重ね、翌年には飯島正、三好達治、北川冬彦、阿部知二らが加わった。三好、北川の初期の代表詩の多くは「青空」に発表されたものだ。梶井も「城のある町にて」「泥濘」「路上」「橡(とち)の花」「Kの昇天」などを発表した。しかし、学生たちはそれぞれ卒業によって生活が変わる。梶井自身も肺病が悪化し、金銭的にも追い詰められ卒業を断念する事態となった。

 「青空」は昭和2(1927)年6月に通巻28号で廃刊となる。創刊から2年半の出来事だ。

 その後、梶井自身は死と隣り合わせの生活の中で、作品を書き続け、別の同人雑誌に掲載されたが、広く注目を集めることなかった。結局、大阪の家に帰り31歳の短い人生を終えることになる。

 その梶井が世間に知られる下地をつくったのは、梶井の才能を惜しんだ友人らの奔走で、作品集「檸檬」が編まれたことだ。大阪で闘病中の梶井を、三好達治が見舞った。三好はかつて「青空」同人で、また詩人として世に知られつつあったが、友人の衰弱した様子に衝撃を受けた。「詩・現実」の版元だった武蔵野書院にかけあい、作品集を企画。実務は同じく「青空」同人だった淀野隆三が引き受け、作品集が完成した。梶井の死の8カ月前のことだ。

 作品集には、「青空」をはじめ各同人雑誌に発表された作品が収録されたが、病床で梶井は細かく指示を出した。表紙は無地にすることなど装丁のほか、「橡の花」については「水準以下」としてすでにゲラになっていたがはずさせた。

 作品集「檸檬」は短編18編を収録して昭和6年5月に刊行された。これが梶井の生前唯一の単行本となる。

 本は何人かの作家の目にとまることになったが、なんといっても中央文壇の注目を集めるきっかけとなったのは昭和7年2月「中央公論」に出た小林秀雄の文芸時評だ。

 小林は「中央公論」の前の号に掲載された梶井の短編「のんきな患者」に触れながら、その前に出された作品集「檸檬」に言及する。

 自分は「檸檬」を著者から贈られ、これを通読して「清澄鋭敏稀にみる作家資質」と感服したが、著者が思い病にあると聞いて書く事を躊躇していた。しかし、最新作「のんきな患者」を読み、改めて作品集「檸檬」を取り上げたい。として一作一作を丁寧に論評した。

 生と死の感情が果敢に結びつけられて表現された「ある崖上の感情」、無駄のない、謙譲とでも形容したい自然な披露がある「冬の蠅」、猫や河鹿が交尾して溌剌たる絵巻を織り出す「交尾」。

 しかし、なんといっても全作品の「導調(ライトモチーフ)」をなすのは短編「檸檬」だとしてこうのべる。

 「これは言ふまでもなく近代知識人の頽廃、或は衰弱の表現であるが、この小説の味ひには何等頽廃衰弱を思わせるものがない。切迫した心情が童話の様な生々とした風味をたたえてゐる」「丸善の棚に黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た悪漢は私、(と書く)彼の叛逆は諧謔の裡に完成する」

 相変わらず小林秀雄の文章は難解だ。ともかく高く評価した。

 しかし、小林の評論が出た翌月、梶井基次郎はひっそりと大阪で亡くなった。文壇では「夭逝した新人」への関心が一気に深まる。手紙やノートのたぐいは「青空」同人だった仲間に託され、3年後には習作も含めた「個人全集」が編まれた。そこでは萩原朔太郎、川端康成、宇野浩二、河上徹太郎ら同時代の大御所がそろって賛辞を寄せた。

 その影響は戦後まで続く。何がそれほど作家たちをひきつけたのか。   =(3)に続く

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石野伸子 石野伸子 産経新聞特別記者兼編集委員。生活面記者として長らく大阪の衣食住を取材。生活実感にもとづき自分の足と感性で発見したホンネコラムをつづるのを信条としている。

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