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【千田嘉博のお城探偵】CASE7 巨大なる志布志城 苛烈、島津氏の強さの裏側

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志布志城の主城だった内城には、戦国期の壮大な空堀跡が残る(筆者撮影)
志布志城の主城だった内城には、戦国期の壮大な空堀跡が残る(筆者撮影)

 NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」がはじまった。主人公の西郷隆盛は薩摩藩の島津家に仕えた下級武士のひとりだった。薩摩藩は、ほかの大名に比べて圧倒的に下級武士が多く、それは島津氏の特異な家臣制度に由来した。本拠の鶴丸城下町(鹿児島市)に集住したのは家臣のおよそ10%にすぎず、大多数は外城(とじょう)と呼ぶ領国内の城の周囲に居住した。

 ■下級武士まで集める

 外城で武士が居住した集落を「麓(ふもと)」といい、志布志(しぶし)麓(志布志市)はその一例である。麓集落の武士の半数以上は石高が10石未満で、島津氏はそうした人びとを武士とした。志布志城の内城には戦国期の壮大な空堀跡が残り、南北600メートル、東西200メートルもの規模をもった。戦国期に下級武士まで集めた巨大な城が、島津領内に成立したのを物語る。

 わずかな給料の武士が多数だったのに、島津氏はなぜ強かったのか。その疑問は、熊本細川家の美術品や古文書を保存・展示する東京の永青文庫の展覧会を見て氷解した。特別展「細川家と『天下泰平』」展に、ひとつの古文書が出陳された。1600(慶長5)年の関ケ原の戦いの折、九州で東軍の加藤清正領に攻め込んだ島津軍が、熊本県葦北(あしきた)郡田浦(たのうら)村(熊本県芦北町)で行った拉致と掠奪の記録である(「慶長五年九月廿七日ニ芦北郡之内田浦村百姓治部少乱之時之帳 薩州江取越人数」)。

 ■子供や女性を奴隷に

 古文書の一部を見てみよう。「二人女 女房ハ出水(いずみ)本町ニい申し候 安十郎女房 むすめハ出水之城之内 河畑平右衛門殿ニい申候」とある。つまり田浦村の安十郎の妻と娘が1600年に島津軍に拉致され、妻は鹿児島県出水本町(鹿児島県出水市)に、娘は出水市の河畑氏の武家屋敷にいたとする。このように拉致被害者の一人ひとりの消息を伝える書き上げは延々とつづき、島津軍は田浦村だけでも合計234人を拉致したと記した。

 この古文書を分析した熊本大学の稲葉継陽氏のご教示によれば、拉致被害者の約半数は子供で、拉致を実行したのは島津軍の下級武士だった。島津軍の下級武士たちが積極的に戦いに加わった大きな理由は、戦場での拉致や掠奪が許され、拉致した子供や女性を戦争奴隷として一生使い、また売買して儲(もう)けられたからだった。

 驚くべきことはもうひとつある。この書き上げは、なんと拉致から33年後の1633(寛永10)年につくられていた。「出水本町」などの地名は、被害者が拉致から33年後にいた場所だった。拉致から33年といえば子や伴侶と生きて再会するのも難しくなる歳月で、田浦村の人びとは加藤清正を継いだ忠広が改易され、新たに熊本の領主になった細川氏が島津家と返還交渉をしてくれることに一縷(いちる)の望みを託したのだった。

 戦争奴隷にされた拉致被害者は、33年間一度も田浦村へ帰れなかったようだ。そして島津氏はついに拉致被害者を返さなかったらしい。熊本県葦北郡と鹿児島県出水市とはわずか30キロ。なんという悲劇だろう。戦国時代の拉致や掠奪はどの大名も行ったが、島津軍の行為は苛烈を極めたと伝えられる。それは島津氏の特異な家臣編成に起因し、巨大な戦国の城ができた理由でもあった。その後、江戸幕府は拉致と掠奪を禁じたので、薩摩の下級武士の困窮は一層募った。その薩摩の下級武士から現れた西郷が、およそ260年後に近世の平和を実現した幕府を倒した。   (城郭考古学者 千田嘉博 =この記事は、平成30年1月23日の産経新聞に掲載されたものです)

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 【用語解説】志布志城

 内(うち)城、松尾(まつお)城、高(たか)城、新(しん)城を合わせた総称。築城年は分かっていないが、志布志は日向(宮崎県)と大隅(鹿児島県)の境に近い要衝の地で、古くから城が整備されていたと考えられている。文献に多くみられるようになるのは南北朝時代。

領有をめぐる争いが絶えなかったが、1577(天正5)年に島津領となった。江戸時代の一国一城令が発布されたころ廃城になったとされる。

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 【プロフィル】千田嘉博(せんだ・よしひろ) 奈良大学教授。昭和38年、愛知県生まれ。奈良大文学部卒業。大阪大学博士号取得(文学)。国立歴史民俗博物館助教授、奈良大助教授などを経て現職。平成26年4月から28年8月まで奈良大学長を務めた。専門は城郭考古学。27年、浜田青陵賞受賞。NHK大河ドラマ「真田丸」で真田丸の復元考証を担当した。

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