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【千田嘉博のお城探偵】CASE6 人柄物語る信貴山城「三悪」久秀、実は穏健派?

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CASE6 人柄物語る信貴山城「三悪」久秀、実は穏健派?

千田嘉博のお城探偵更新
信貴山にある朝護孫子寺。毘沙門天をまつる(いずれも筆者撮影) 1/3枚

 松永久秀は戦国時代を代表する悪人として知られる。主君の暗殺、将軍の殺害、東大寺大仏殿炎上を久秀の「三悪」という。確かにいずれかひとつをしただけでも悪人だが、3つともなると、いくら乱世であってもひどい。久秀をよくいわないのも当然である。ところが近年の研究で久秀の「三悪」イメージは、大きく変わろうとしている。

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 ■三悪は冤罪(えんざい)

 まず1563(永禄6)年の主君・三好義興暗殺を検証してみよう。当時の久秀の手紙が伝わっていて、暗殺どころか久秀は主君の病を嘆き悲しんでいたとわかる。暗殺説は後の編纂(へんさん)物にはじまっていて信憑性(しんぴょうせい)は低い。主君暗殺はえん罪であった。

 つぎに1565(永禄8)年の将軍・足利義輝の殺害は、久秀の息子・久通と三好義継(義重)が、犯人だったと史料から判明する。久秀は将軍殺害に関わらず、逆に奈良興福寺の僧侶になっていて、後の将軍になった義昭を保護した。つまり将軍殺害は、えん罪だったと断言できる。

 最後に1567(永禄10)年の東大寺大仏殿炎上は、久秀の居城であった多聞(たもん)城(奈良市)を攻めた三好三人衆に、東大寺が味方して境内に三好軍を陣取りさせたことに遠因があった。反撃に出た松永軍は東大寺を攻めるしかなく、激戦のなかで大仏殿は炎上した。だから大仏殿炎上を久秀だけの責任とすべきではない。東大寺炎上は不可抗力といえ、戦国武将としては、久秀は無罪だと思う。

 ■文化サロンを主催

 再検証すると久秀の「三悪」はいずれも誤りだったとわかる。それでは本当の久秀は、どんな人物だったのだろう。たとえば1562年に久秀は、築城中の多聞城内の茶室の設計を詳しく指示した。久秀の芸術へのこだわりがうかがえる。翌年に開いた城内北向き六畳敷茶室の茶会は、平蜘蛛(ひらぐも)茶釜、つくも茄子茶入(なすちゃいれ)などの名品を用いた豪華さだった。

 また1565年に久秀は、北向き四畳半の茶室で茶会を開いた。だから城内に複数の茶室があったとわかる。そしてこの茶会には千利休を招いており、久秀が関西屈指の文化サロンを主催する教養人・文化人であったことを物語る。

 ■権力のまとめ役

 久秀のもうひとつの居城の信貴山(しぎさん)城は奈良県平群(へぐり)町にあり、古代以来の信貴山朝護孫子(ちょうごそんし)寺に接した山城だった。城跡は寺域として守り伝えられ、遺構は今もほぼ完璧に残っている。現地では地形を活かした広大な戦国期拠点城郭を体感できる。

写真ギャラリー

  • 城址保全研究会による整備が進む信貴山城の松永屋敷跡