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【鹿間孝一のなにわ逍遙】オールジャパンだった1970年大阪万博

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 2025年に大阪での開催を目指す国際博覧会(万博)の誘致委員会会長に、経団連の榊原定征(さだゆき)会長が決まった。財界のリーダーを引っ張り出して、松井一郎大阪府知事は「心強い。これでオールジャパンの体制ができた」と誘致に自信をみせた。

 思い出すのは、1970年の大阪万博で、開催主体の日本万国博覧会協会の会長が、やはり経団連会長の石坂泰三(1886~1975年)だったことである。

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 第一生命、東芝社長を歴任した石坂は、昭和31年に第2代経団連会長に就任する。固辞したが、労働運動が盛り上がった時代で、東芝で労使紛争を収めた手腕がかわれ“火中の栗”を拾わされた。

 以降12年間にわたって経団連会長を務めた。日本はちょうど高度経済成長時代。財界の発言力、影響力も大きく、なかでも硬骨で知られた石坂は政府にもズケズケとものを言った。

 経団連会長が「財界総理」「陰の総理」と呼ばれるのは石坂からである。

 その石坂に、日本で初めての万博を成功させたいと、当時の通産大臣、三木武夫が頭を下げた。

 「(行き場がなくなった)川の流れのように、その役が自分のところに回ってきた。あなたしかないと頼まれた以上、やってみるしかないではないか」

 城山三郎が「もう、きみには頼まない-石坂泰三の世界」(文春文庫)で、石坂の心境を書いている。

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 引き受けた以上、“お飾り”のつもりはなかった。

 政府の万博予算があまりに少なかったので、佐藤栄作首相に直談判して、要求の95%を認めさせた。

 すでに決まっていたシンボルマークが気に入らず、「もっと大衆性がなければいかん」と桜の花をイメージしたものに変更させた。

 建設業界にも「一定の利潤は仕方ないが、ぼろもうけしようするのはけしからん。これはお国の仕事だ」とコストダウンさせた。

 すべては「何としても成功させたかった。功名心などからではない。成長した日本経済の姿を国の内外に堂々と展示したいとの一念である」(「もう、きみには頼まない」から)。

 大阪万博は6422万人の来場者を集め、万博史上空前の成功を収めた。

 閉幕時の記者会見で石坂は「何が残念だといって、黒字になったことだ。赤字が出たら、総理のところへねじこんでやろうと思っていたのに」と煙に巻いた。

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 現在の経団連会長は、石坂の時代とは違う。「財界総理」の威光も薄れている。だから誘致委員会の会長に迎えたからといって、それだけで「オールジャパン」とは言えまい。

 1970年の大阪万博は、政・官・財界だけでなく、学会や芸術など各分野から、当時の日本のトップクラスが総結集した、文字通りの「オールジャパン」だった。

 大阪万博の感動、興奮を懐かしく思い出す世代はまだ多い。その記憶を「オールジャパン」で集め、盛り上げてはどうか。

 すでに2025年の万博に名乗りを上げているパリは強敵である。

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鹿間孝一 鹿間孝一 産経新聞特別記者兼論説委員(平成25年9月まで大阪特派員を兼務)。北海道生まれの大阪人。生涯一記者を自任していたが、なぜか社命によりサンケイリビング新聞社、日本工業新聞社で経営にタッチして、産経新聞に復帰した。記者歴30余年のうち大半が社会部遊軍。これといった専門分野はないが、その分、広く浅く、何にでも興味を持つ。とくに阪神タイガースとゴルフが好き。夕刊一面コラム「湊町365」(「産経ニュースWEST」では「浪速風」)を担当。共著に「新聞記者 司馬遼太郎」「20世紀かく語りき」「ブランドはなぜ墜ちたか」「なにが幼い命を奪ったのか 池田小児童殺傷事件」など。司馬遼太郎に憧れるも、いうまでもなく遼に及ばず。

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