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【石野伸子の読み直し浪花女】野坂昭如のウソとマコト(1)ジブリのアニメ『火垂るの墓』餓死した妹「嘘…重荷、実録で書けない」

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 野坂昭如(のさか・あきゆき)が亡くなって1年余り。時代を駆け抜けた異才をしのぶ声は根強い。

 作家という枠にはとうてい収まらない人物だった。CMソングの作詞をはじめとしてコント作家、テレビの台本などさまざまな仕事を経験した後、昭和38(1963)年に「エロ事師たち」を発表、昭和43(1968)年「火垂るの墓」と「アメリカひじき」で直木賞を受賞し、作家としての地位を確保した。

 しかしその後は歌手、CMタレントとして活躍するかと思えば、「四畳半襖の下張」裁判で被告人として法廷に立ち、政治家をめざして参院選に当選した。もっとも半年足らずで田中角栄批判をして議員辞職、衆院選で新潟三区から出馬して落選した。平成15(2003)年には脳梗塞で倒れるがリハビリにはげみ、創作活動を続けた。平成27(2015)年12月9日、85歳で死去。

 多くの人々の心に残る作品というとやはり「火垂るの墓」ではないだろうか。自身の戦災体験に基づいた代表作。同名のアニメ作品とともに繰り返し語られている。

 焼跡闇市派作家を決定づけた作品。本人もまた、この言葉に固執した。その野坂は終戦後の文字通りの焼跡闇市時代、大阪の守口で過ごしている。昭和20(1945)年夏から22年末までの2年余り。しかし、長くこの時期については「実録風に語るのは辛い」と口をつぐんでいた。なぜなのか。野坂昭如のウソとマコトが交錯する大阪時代を切り口に、異才の世界をたどっていこう。

 野坂昭如は昭和20(1945)年6月5日、神戸大空襲で神戸市灘区の自宅を焼け出された。14歳だった。妹とともにツテを頼って西宮市の夙川に身を寄せ、野宿に近い体験もした。妹は餓死。その体験を元に書いたのが「火垂るの墓」だ。

 昭和42年、雑誌「オール読物」に発表され直木賞を受賞。昭和63(1988)年にはアニメ映画「火垂るの墓」(高畑勲監督)となり、広く愛される作品になったのはご存じの通りだ。

 野坂は実体験に基づいた自伝的作品やそれを実録風に書いた文章を多く残している。

 「アドリブ自叙伝」は昭和48年、雑誌「現代」に連載されたもので、自伝的長編の代表作だ。昭和5年に神奈川県の鎌倉で生まれたが、生後間もなく養子に出され、神戸で育った。「アドリブ自叙伝」ではそんな複雑な生育歴、神戸での空襲体験、「飢えと盗みの日々」をへて昭和22年に上京するまで詳細に語られている。しかし、強く言いよどんでいる部分がある。

 「満池谷の生活から、新潟の実父にひきとられ、野坂の姓を名のるまでを、実録風に書くのは辛い

 満池谷とは「火垂るの墓」の舞台となった場所。「新潟の実父にひきとられ」とは上京後、盗みを働いてたちまち少年院行きとなり、新潟県副知事をしていた実父に引き取られ復縁した昭和22年12月のことだ。つまり、昭和20年夏から22年まで、大阪での生活にほぼ重なる時期の記述に苦しんでいる。

 「ぼくは自分のついた嘘、つまり、自分をあわれな戦災孤児に仕立て、妹思いの兄の如く描いた嘘が、一種の重荷として、はっきりのしかかって来た。本当のことを、やはり書かなければいけないと考え、満池谷へ、この原稿にとりかかる前、出かけたのだ。そして、やはり書けないのだ」(「アドリブ自叙伝」)

 何をそれほどためらっているのか。

 「火垂るの墓」では4歳に設定されている妹は、実際にはこのとき1歳4カ月だった。妹も養女で血はつながっていないが、小さな妹をかばいながら焼跡をさまよった体験は本物だ。

 野坂は「火垂るの墓」とほぼ同時期、当時のことを実録風に書いた「プレイボーイの子守唄」という文章を発表している。空腹で泣き止まない妹の頭を殴りつけたら泣き止んだこと、後にそれは「脳しんとうを起こして気を失っていただけ」と医師に聞かされ絶句したことなど、20年以上たってもまだ重い戦争体験を生々しくつづり、婦人公論読者賞を受賞した。

 野坂はこの文章ですでに「妹思いの兄」の仮面ははぎとっている。

 では言いよどんでいるのは何か。それは後に書かれた文章を読めば明らか。「戦災孤児」のくだりだ。

 なぜこれが作家を苦しめたのか。守口時代をひもとく最大のカギはここにある。   =続く

▼野坂昭如(2)火垂るの墓、戦災孤児「僕は、嘘を着る人間だ」

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石野伸子 石野伸子 産経新聞特別記者兼編集委員。生活面記者として長らく大阪の衣食住を取材。生活実感にもとづき自分の足と感性で発見したホンネコラムをつづるのを信条としている。

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