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【西論】「海道東征」再び 戦後の偏り超え響く詩と音

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「海道東征」再び 戦後の偏り超え響く詩と音

西論更新

 少し私事を書くことをお許しいただきたい。

<< 下に続く >>

 10年ほど前、時間があれば神社を訪ねていた。どこそこと定めてばかりではない。駅を出て、車で通りかかって。遠目にも鳥居が見えると立ち寄った。

 ◆寒々とした光景

 なぜだかはわからない。日本の成り立ちに漠然と関心を持っていたからかと思うが、それはおく。

 さまざまな相を見た。

 著名な神社はよい。有名でなくても清潔に手入れされた社もあった。しかし多く見たのは、むしろ寒々とした光景である。

 都市近郊のある神社では周辺の「開発」が進み、境内の一方の外には土砂が殺風景に積まれ他方にはゴミ袋が捨てられていた。山を神とする古社の、その神体山のふもとを流れる川に沿って歩けば、粗大ゴミが転がっていた。

 ある小高い山の上にお稲荷さんがあるのを地図で認めて登ると、山肌がところどころ道に崩れ、林立する赤鳥居のいくつかは倒れかかっていた。参拝する人がほとんどないことは見て取れた。

 これらはごく一部である。悪意でもって書き連ねたのではない。地域の過疎化など現代特有の問題も背景にはある。しかしこうした光景を各地で見ると、日本のよって立つ地盤が風波にもろもろと浸食されているように感じた。

 神職や、神社の世話をする古老に話を聞いているとわかるのだが、神社は祭事などを通じて地域を結びつけ、さかのぼる歴史にその地域を結びつけている。共同体の核の一つであったといってよい。そのような横と縦のつながりが失われかけていることを、荒れた神社の姿に感じざるをえなかった。

 ◆日本回帰の精神

 そのころ「海道東征」を知った。音楽作品としてではない。北原白秋(1885~1942年)の全集で目にした。

 西洋色を濃くにじませた詩風で出発した白秋は、短歌や童謡もよくし、やがて日本回帰といってよい精神の軌跡を見せている。「昭和エロ・グロ・ナンセンス」といわれた昭和初期前後の世相にあらがうように、日本的なものへの傾斜を強めた。たとえば昭和10(1935)年の「歌謡非常時論」では、低俗歌の流行など軽薄な世相を難じて「これでよいのか、これで日本がよいのか」と嘆く。

 よい日本、美しい日本を探して白秋が行き着いたのが、「古事記」や「日本書紀」の古い語調にならった晩年の詩風だっただろう。皇紀2600(昭和15)年の奉祝曲である「海道東征」はこう始まる。

 「神坐(ま)しき、蒼空(あをぞら)と共に高く、」

 すでに白秋は眼病が悪化していた。記紀を家族に大きく筆写してもらい、また読んでもらって詩作した。

 この詩風を白秋は蒼古(そうこ)調と呼んだ。蒼古とは辞書的には古びていて深みがあるさま(大辞林)だが、「海道東征」の詩句の通り、太古に通じる蒼空の印象で読みたい。ある童謡論で白秋は、童謡のふるさとは日本のよい蒼空にある、との意を書いている。

 「海道東征」では民謡や童謡のような詩句もちりばめ、それらをはるかな神代に連ねさせた。この詩を収めた詩集の巻末記で、「貫通するところのものは日本精神であり」、と書いている。

 このような日本回帰という精神の動きは白秋に限らない。日米開戦後、「文学界」でなされた「近代の超克」特集に集った評論家、思想家をはじめ、戦前・戦中の日本で共有されたものだった。西洋近代と対決するその思想を論考した中国文学者、竹内好(よしみ)によると、「近代の超克」は戦中の知識人にとって流行語となったが、戦後は「悪名高き」と冠されるのが慣習化されるほど悪玉扱いされた。

 ◆蒼空の高みから

 「海ゆかば」で知られる信時潔(のぶとき・きよし)が曲を付けた音楽作品として「海道東征」を聴いたのは、さらに後だった。詩のみならず、気高く清澄であり、ときに可憐(かれん)な曲調を持つこの作品は、古今と東西をも融合させ、比類がない。

 当欄などで筆者は何度かこの交声曲について書いた。戦後日本の風潮のなかで、この曲が忘れられたことも触れた。「海道東征」に限らず「日本精神」なるもの自体が戦後の長い期間、忌避されてしまったといってよい。悪玉扱い、である。

 しかし、民族の原点を確認しようとする精神が否定されてよいはずがない。過去を断絶して得た戦後民主主義なるものの果てが、鎮守の森にすらさらされた芥(あくた)の数々であるとするなら、なんとおぞましいことか。

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