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【関西経営者列伝】若き日の挫折「娯楽ビジネス」の種に カプコン・辻本憲三会長(2)

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若き日の挫折「娯楽ビジネス」の種に カプコン・辻本憲三会長(2)

関西経営者列伝更新

 夜学で高校を卒業後、社会に巣立ったカプコン創業者の辻本憲三会長(75)。若くして挫折を経験するが、持ち前のバイタリティーで次々と“新戦略”を実行に移し、時代の波に乗りながら同社の設立へと向かった。(牛島要平)

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綿菓子製造器で子供心をキャッチ

 自宅の近所で親族が菓子卸売店を営んでいて、高校卒業後はその店を手伝うことにしました。「会社勤めより、そういうところがいいかな」という思いとともに、200種類ほどの量り売りのお菓子を「いつでも食べていいよ」と言われたことも魅力的でした。

 その後、店の経営を引き継ぎましたが、借金がかさみ2、3年でやめました。資本がなかったし、経験も不足していたんですね。

 《若くして挫折を味わった後、再起をかけて昭和41年、大阪市内で菓子店を開業する。これが「娯楽ビジネス」に目を向けるきっかけとなった

 ある日、業者が綿菓子の製造器を売りに来て、店に置いたところ、子供が30~40人も並びましてね。綿菓子よりも機械で作ることが珍しかったんでしょう。「これは面白い」と感じ、業者に製造器販売を手伝わせてくれと頼むと、「じゃあ一緒に売りに行こうか」と。西日本を車で回り、奄美大島まで行きました。

 娯楽の少ない時代で、活気のある漁師町などではいい商売になった。スーパーに機械を置くと、住民がみんな集まってきました。

 昭和45年ごろ、九州で古いパチンコ台を子供向けに改修している業者に出会い、頼まれる形で、今度は瀬戸内海沿岸を東へ、パチンコ台をレンタルで置いて回った。駄菓子店やスーパーに置くと、これがまた大人気。10円玉の代わりに同じような大きさの古銭を入れて遊ぶ子供もいました。

 《やがて、米国で流行していたピンボールに目をつけた。米国の遊び文化が高度成長期の日本を席巻。波に乗って本格的にゲーム機事業に乗り出した

 喫茶店やゲームセンターにあるレンタルのピンボールを1台25万円ぐらいで買い取り、小学校に近い文房具店などに置いたんです。すると店から「コインが入らなくなった。故障じゃないか」と言われる。中を調べると、箱に小銭がぎっしり。1カ月30万円ぐらいの売り上げで、購入費用の元は十分取れました。

 昭和49年にはゲーム機製造販売会社を設立し、商業施設やゲームセンターなどに置く業務用ゲーム機の開発を始めました。

 ピンボールにしても、音楽が楽しめるジュークボックスにしても、米国で生まれた。海外市場の重要性は当時から認識していたし、欧米のゲームショーをこまめに視察し、ゲーム機の輸出も進めました。

「遊びのカプセル」企業ビジョンに

 《昭和53年、「スペースインベーダー」が登場、爆発的な人気を呼んだ。本格的なコンピューターゲーム時代の幕開けだった

 うちのゲーム機を製造していた業者が、家電メーカーの下請けでテレビの生産ラインを持っていて、テーブル型ゲーム機を作らせるといい製品ができた。そこにインベーダーブームが来て、ライセンス生産するとたくさん売れたんです。

 その業者は「安定的に生産させてほしい」と言ってきたんですが、私は「こんなブーム、安定的ではないよ」と思った。案の定、半年ほどで過剰供給になった。業者は需要が1、2年続くと思って生産を増やしたんですが、在庫がたまり、私の会社も経営がみるみる悪化しました。そのことが原因で、会社の社長を辞任せざるを得なくなりました。

 妻と子供が3人いましたが、「ずっと働いてきたんやから」と半年間ほど家にいて遊んでいました。そのうち家族が心配し出し、「何かやらないか」と融資を持ちかけてくれる人もいて、昭和58年にカプコンを設立しました。

 「カプコン」という社名は、当時普及し始めたパソコンの向こうを張るつもりで、「遊びを詰め込んだカプセル」という企業ビジョンを込めました。ゲームソフトを違法なコピー品や粗悪品から守るという決意もありました。

 つじもと・けんぞう 昭和15年12月、奈良県高取町生まれ。畝傍高定時制を卒業後、綿菓子製造器の行商などを経て、ゲーム機の製造販売を始める。58年にカプコンを創業し、世界的なゲームソフトメーカーに育て上げた。平成19年に社長職を長男の春弘氏に譲り、会長兼最高経営責任者に。1年のうち約80日は米国へ出張し、世界最大のゲーム市場の動向を調査している。妻と2人暮らし。