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【関西経済人の8・15(1)】「無残な光景忘れぬ」海軍兵学校で原爆に遭遇 元関経連会長・元住友電工会長 川上哲郎氏(87) 

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「無残な光景忘れぬ」海軍兵学校で原爆に遭遇 元関経連会長・元住友電工会長 川上哲郎氏(87) 

関西経済人の8・15(1)更新

 関西経済界で功成り名遂げた現在80代以上の人たちは、多感な時期に先の大戦に遭遇した。士官候補生として兵学校で学んだり、原爆投下や空襲に遭遇して一命を取り留めたりした体験や戦後の生活を振り返り、現在の日本や関西のあり方について語ってもらった。

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 《戦闘機乗りを夢見た。日本の敗色が濃厚となっていた昭和20年春、生まれ育った東京の旧制中学校から広島・江田島の海軍兵学校に進んだ》

 海軍のネービーブルーの制服がかっこよくてね。パンや洋食が中心などハイカラな雰囲気にもひかれた。呉(広島県)に停泊中の大和らしき戦艦を見たこともあります。

 《8月3日に17歳になった3日後。広島に原子爆弾が投下された朝は兵学校で英語の授業中だった。校舎は経験したことのない揺れと轟音(ごうおん)と光に襲われた》

 「机の下にもぐれ」。教官の緊張した声が響きました。煙が立ちこめて暗雲になり、しばらくして黒い雨が降ってきた。何が起こったか分からず、友人と「火薬庫が爆発したのでは」などと話していました。

 15日に終戦を迎えると、日本が負けたことに呆然(ぼうぜん)とし、それからの生活は考えられなかった。岡山に疎開している母の元を目指し、広島駅で汽車に乗るため広島市内に入ると、建物はみんな倒れ、皮膚がめくれたり、ただれたりした人たちがあふれている…。無残なあの光景は忘れられません。

 《帰京後も厚生省(現・厚生労働省)の官僚で中国・北京に駐在中だった父がしばらく現地で抑留されたため、暮らし向きは楽ではなかったが、母の勧めもあり東京商科大(現・一橋大)に進学した》

 戦争では負けた。これからの日本は経済で生きていくんだ。そう思いました。大学では日本に近代経済学を導入した中山伊知郎教授の講義が素晴らしく、後の池田勇人(はやと)内閣が打ち出した「所得倍増計画」の原型のような理論も話されていた。

 《海外での仕事を希望し商社への就職を考えたが、ゼミの教授の勧めもあり、よく知らないままに大阪の住友電気工業へ。別の内定者が健康診断で引っかかったため、“代理”入社だった》

 会社全体が自由な雰囲気でとてもよかった。若手の意見も積極的に取り入れようという空気があり、仕事に打ち込めた。現在の積極的な製品開発や多角化経営にもつながっています。

 戦後、自動車産業が巨大化し、(住友電工の製造する)自動車向けワイヤハーネス(組み電線)がここまで成長するとは思わなかった。経営は数十年先を見て時代の変化に対応し続けねばなりません。業績が好転せずに苦しむ日本の製造業には今こそイノベーション(技術革新)が必要です。

 《就職以来、大半を関西で過ごした。関西経済連合会の会長にも就き、関西の来し方行く末を見てきた》

 関西企業もかつては地域を何とかしようという意気込みがあったが、今やこれほど東京に一極集中するのは異常。関経連でベンチャー企業が活発に起業する仕組みをつくろうと取り組んできたように、今後、新たな産業が関西で次々と生まれる素地ができていったらと願っています。(聞き手 内山智彦)

      

 かわかみ・てつろう 昭和27年東京商科大(現・一橋大)卒。同年住友電気工業。専務、社長などを経て平成3~11年会長。20年8月から名誉顧問。6~9年、関西経済連合会の会長を務めた。東京都出身。