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【花燃ゆ維新伝(21)】高杉晋作の参謀となり、井上馨の命を救った「美濃浪人」所郁太郎

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高杉晋作の参謀となり、井上馨の命を救った「美濃浪人」所郁太郎

花燃ゆ維新伝(21)更新

 高杉晋作とともに俗論党を破った美濃浪人がいた。名を所郁太郎という。天保9(1838)年、美濃赤坂の矢橋亦一の四男に生まれ、雅号は日本狂生、変名を石川春斎と称した。

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 郁太郎は晋作より2歳上である。のち遊撃隊参謀として晋作を助けた。晋作が尽力した4カ国連合艦隊講和談判後に、郁太郎は慎重論を唱え、吉田松陰門下の品川弥二郎に心境を詠み扇面に書き贈った。

 「志士仁人命いたす秋 狂夫何事みだりに優遊 この身馬関に向って死せんば 妓東山携えて酒楼に対せん」

 この扇面は現在尊攘堂(京都大学付属図書館)に所蔵されている。

 尊攘堂は品川が明治20年3月に京都高倉通錦小路に建設し、先覚志士の遺墨を中心に取集したが、発案は松陰であった。

 安政6(1859)年5月15日に門人の入江九一が岩倉獄舎から野山獄中の松陰宛に「先生どうぞ尊攘堂の位牌(いはい)に成り給ふな」と送り、門人らに先覚者の顕彰祭典を行い資料展も開き、その精神を受け継ごうと説いた。

 鷹司家諸大夫小林良典が安政の大獄で連座し江戸で捕えられていたので、松陰は10月12日、伝馬町の獄舎から書状を送り、朝廷の学問も民間に広げるべきだと訴えた。すでに死罪の近いことを覚悟していた。松陰は入江宛の書簡で「かねて御相談申し置き候、尊攘堂の事、僕はいよいよ念を断ち候、この上は足下兄弟の内一人は、ぜひ僕が志成就し呉れられ候事とたのもしく存じ候」と尊攘堂の建設を入江兄弟に託した。

 明治初年、内閣顧問木戸孝允(桂小五郎)は、京都霊山にある松陰門下の入江九一、久坂玄瑞(くさかげんずい)、寺島忠三郎、吉田稔麿らの墓前に額(ぬか)ずき、同9年に明治天皇からの4千円を賜(たまわ)り、志士の顕彰団体の京都養正社を興し、招魂祭を霊山で行い資料展を近くの翠紅館で開いた。

 品川も明治22年には尊攘堂祭と資料収集に尽力した。

 郁太郎は23歳で大坂の適塾に入り西洋医学の外科を志した。適塾といえば長州の大村益次郎(村田蔵六)がいた。秀才の誉れ高く塾頭にまでなった。

木戸が見いだす

 郁太郎を見いだしたのは木戸だった。木戸は長州藩京都屋敷付けの外科医が欲しかった。文久2(1862)年25歳の時、郁太郎を召し抱えた。

 郁太郎は8月28日、長州に入った。さっそく桂は推挙の理由を本藩の麻田公輔に報告し10月7日、藩主毛利敬親(たかちか)から正式にお雇格となった。この日、家老の益田右衛門介から「尊王攘夷医師尽力相優れ候由相聞え候間、此の方へ召し抱へられ候」と申し渡された。翌日、藩主敬親にお目見えとなり、9日には寺社組支配、遊撃隊参謀並びに医院総長に就任した。

 イギリスから帰国した伊藤博文と井上馨は4カ国講和談判の時、井上は藩主お目見えがかなったが、足軽出身の伊藤はかなわなかった。他藩の郁太郎が召し抱えられ上に、お目見え扱いされたことは異例のことであった。

俗論党を破る

 長州藩は文久3(1863)年の8・18の政変、翌年の池田屋事件で同志を失い、禁門の変で敗れ八方塞がりの状態になった。

 藩論は椋梨(むくなし)藤太らの俗論党が台頭してきた。正義派の井上は湯田温泉で暴漢に襲われた。どうも俗論党の連中で、このとき井上は祇園の芸妓(げいこ)中西君尾からもらった金属製の鏡を懐に入れていて、刺されたが命拾いした。

 深手を負った井上は苦しまぎれに「介錯してくれ」と頼む。兄の五郎三郎が刀に手をかけると、母お勝が「何をする。死んだらお国のために尽くせるか」と諌(いさ)めた。

 このとき郁太郎が駆けつけた。何しろ郁太郎は外科医、従者の丁輔は郁太郎に言われるままに畳針を焼酎で消毒し、縫いあわせるのに4時間を要した。丁輔は脈を取り無事終えた。品川は会うたびに井上の泣き顔を見たとからかった。

 晋作は力士隊の伊藤や遊撃隊の石川小五郎や郁太郎と密議をこらし、ついに俗論党をしりぞけた。

 郁太郎は慶応元(1865)年3月、遊撃隊本陣において腸チフスで没した。行年28歳だった。(木村幸比古・霊山歴史館副館長)