産経WEST for mobile

記事詳細

【古代天皇誌】仁賢天皇 後継の兄は石上広高宮で即位

更新

 仁賢天皇については、『日本書紀』の記事はわずかしか書かれていません。前回の顕宗天皇=弘計(をけ)=の同母兄にあたる、億計(おけ)王です。2人の王の父が雄略天皇に殺されたために逃亡し、播磨国の縮見(しじみ)の屯倉(みやけ)にいるところを見つけられたという話は前回述べました。

 顕宗朝には、億計王は皇太子の地位にあったと『日本書紀』には書かれています。この時代、皇太子という制度がなかったのですが、次の皇位を継承する立場にあったと思われます。弟の天皇が死去しましたので、石上(いそのかみ)広高宮(ひろたかのみや)で即位しました。石上と言いますから、天理市の石上のあたりだと思われますが、正確な場所はわかりません。

 ところが、『日本書紀』は、「或る本に云はく」として仁賢天皇の宮は2カ所あったとして「川村」と「縮見の高野」をあげています。そして、この2カ所の宮は、宮殿の柱が今に至るまで朽ちないで残っているとあります。石上広高宮と、後者の2カ所の宮との関係は、即位した宮と即位前の宮ではないかと思われます。

 先代の顕宗天皇についても、近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)に即位したとして、「或る本に云はく」として、小郊(おの)と池野に宮があると記しています。さらに続けて「又或る本に云はく」として、甕栗(みかくり)に宮を造るとあります。この場合も近飛鳥八釣宮で即位しますが、小郊と池野は即位前の宮であったのではないでしょうか。

 ただ、甕栗の宮は、顕宗天皇の前代、清寧天皇の磐余の甕栗宮をさしているとみてよいでしょう。としても、近飛鳥と八釣宮との関係については、よく分かりません。

 一方、『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』(奈良時代に作られた国別の地誌書)の美嚢郡(みなぎぐん)(兵庫県三木市周辺)の条に、二王がこの土地に、高野の宮、少野(おの)の宮、川村の宮、池野の宮を営んだと記しています。これらの宮の正確な比定地は不明ですが、三木市志染(しじみ)周辺だと思われます。

 上に引用しました、顕宗紀と仁賢紀に「或る本に云はく」の「或る本」は、『播磨国風土記』のことではないかとう説があります。『播磨国風土記』の成立は、霊亀元(715)年前後とされていますので、養老5(720)年に撰上された『日本書紀』は、『播磨国風土記』を参照したことは十分に考えられます。

 仁賢紀には、皇后の宴席でのマナーについて、次のような話を載せています。

 難波小野皇后(なにわのおののきさき)(顕宗天皇の皇后)は、礼儀に従うことができずに自殺しました。その理由は、次のようなことです。

 顕宗天皇の時に、皇太子であった億計王は、宴席で瓜を食べるのに、瓜を割る刀子がありませんでした。そこで顕宗天皇は、自分の刀子をとって億計王に渡すように皇后に命じました。ところが皇后は、立ったまま刀子を瓜の皿におきました。また、その宴席で酒を酌んで、立ったまま皇太子を呼びました。立ったまま宴席で振る舞ったことによって、罰せられることを恐れて、自ら命を断ったと言います。

 しかし、天皇の皇后となる女性が、マナーを知らなかったために自殺するとは、想像できません。おそらく、『日本書紀』には書かれなかった複雑な事情があったと思われます。(県立図書情報館長・帝塚山大特別客員教授 千田稔)

ランキング