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【鬼筆のスポ魂】村上ファンドと戦った懐深い電鉄マン…手塚元オーナーを悼む

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優勝祝賀会で鏡開きをする手塚昌利オーナー(右)=森田達也撮影
優勝祝賀会で鏡開きをする手塚昌利オーナー(右)=森田達也撮影

 優しい笑顔が忘れられない。細かなことまでアレコレと言わないが、物事の推移や原因は見定めている。そんな人だったように思う。

 阪神電鉄元会長でタイガースのオーナーだった手塚昌利氏が、心不全のため神戸市内の病院で18日に死去したことが発表された。享年89。久万(くま)俊二郎氏に代わってオーナーに就任したのは2004年11月。その後の約2年間、激動の日々を送ることになる。

 オーナー就任会見では監督就任2年目を迎えようとする岡田彰布(あきのぶ)監督に対して「優勝しろと厳命したい」と高いハードルを設定した。そして、理想の監督像を問われると「星野仙一さんです」と言い放った。前年の03年に18年ぶりのリーグ優勝を飾った前監督の名前を公然と「理想の監督」と言い切り、周囲を驚かせた。当時を知る関係者によると「岡田監督は相当カリカリきていた」という。

 この発言の裏側には手塚氏なりの計算があったと思われる。監督就任1年目を4位で終えた岡田監督が直後の秋季キャンプ中、本社首脳との会食の場で「優勝なんて(本気で)やろうと思えばいくらでもできる」という趣旨の発言を行い、久万前オーナーは激怒。会食後に球団社長を呼びつけ「教育がなってない」と叱り飛ばした。手塚氏の「優勝しろ」と「理想の監督は星野仙一」は岡田監督に対してリーグ優勝を現実的な目標として思い知らせ、星野仙一の名前をわざわざ出すことで尻に火を付ける意味があった…と思う。

 手塚氏の檄(げき)は効果抜群だったのか、翌05年にチームは2年ぶり5度目のリーグ優勝(1リーグ時代を含めると9度目)を飾った。手塚氏は9月29日の巨人戦(甲子園)で優勝を見届けた後、ビールかけの祝勝会に参加して勝利に酔いしれた。

 しかし、同年には阪神電鉄筆頭株主になった村上ファンドの買収問題が起き、厳しい立場に立たされる。その年の8月頃まで450円前後で推移していた阪神電鉄株は9月頃から急上昇。関係の金融機関などから危険性を指摘されていながら、対策を取っていなかった。そしてタイガースがリーグ優勝する2日前の27日、村上ファンドの大量保有報告書により、同ファンドが筆頭株主になっていたことが明らかになる。当時の阪神電鉄の株価は最高で1200円を超えていた。

 翌06年の5月には村上ファンドの保有株式は46・82%まで増え、阪神電鉄に対して一定の発言権を有するようになる。10月には村上世彰(よしあき)代表が電鉄本社に乗り込み、手塚会長、西川恭爾(きょうじ)社長らとトップ会談。村上代表は「タイガース」株上場構想を伝え、電鉄首脳は真っ向から反対している。その後、紆余(うよ)曲折を経て阪急ホールディングス(HD)が阪神電鉄の株を取得し、阪神電鉄を完全子会社化。阪急阪神HDとして経営統合した段階で手塚氏は会長を引責辞任。オーナー職からも退いた(後任は宮崎恒彰氏)。

 しかし、会長やオーナー職を退任後も、村上ファンドへの対応策について表面的には経理担当役員ら部下たちを責めるような発言は一切なく、最期まで沈黙を守った。電鉄関係者は「一度、仕事を任せたら細かなことは一切何も言わない人だった。オーナー然としていて、風格があった」と懐かしむ。

 思えば、久万俊二郎会長兼オーナーは「ホウレンソウ」(報告・連絡・相談)を組織内で徹底。事細かに指示を出すタイプの経営者だった。手塚氏は前任者とは逆に「懐の深いトップ」を意識していたのか…。それが村上ファンドには好都合だったのかもしれない。激動の時代を生き抜いた電鉄マンがまた一人、逝ってしまった。(特別記者)

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