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【話の肖像画】弁護士・北村晴男(63)(3)初戦敗退に「結果が全て」

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中学生のころ、長野県更埴市(当時)の自宅で(左から)兄、父親、母親と
中学生のころ、長野県更埴市(当時)の自宅で(左から)兄、父親、母親と

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 《長野県立長野高校を選んだのは、熱心な指導で知られた野球部があったからだった》

 私が「長野高校に行く」というと、父親は「お前、まさか高校で野球をやるんじゃないだろうな」と疑いました。義務教育が終わったのに、野球なんかやって遊ぶとはけしからん、というわけです。鉄工所を経営する父親は「7つ上の兄貴と同じ長野工業高校に行け」と言っていました。工業高校を出て工場(こうば)を継げと。私は長野高校で野球をやりたい一心で「やりません」と嘘をつきました。中学の先生も「お父さん、この成績で工業高校に行く子はいません。長野高校を出て、大学の工学部に行ってから鉄工所を継げばよいですよ」と説得してくれました。そうして念願の長野高校に進学できましたが、おふくろは私が野球部に入ると分かっていました。入学すると、すぐに野球部に入りました。髪を丸刈りにして帰宅すると、当然、父親から怒られますから「あくまで仮入部。2週間したら必ず辞める」と言い張りました。

 《県下有数の進学校で、制服のない自由な校風。学業よりも部活を優先する生徒は少なかったが、念願の野球部で練習に明け暮れる日々を送る》

 練習は毎日午後8時くらいまで続きました。帰宅すると9時半です。野球をやるために長野高校に来ているので、勉強をしようという気はありません。野球部の監督から「英語だけはやっておけ」と言われ、英語だけは勉強しましたが、好きな科目は物理と数学でした。理屈を積み上げるのが好きなんですね。むやみに暗記する科目は嫌いで、なぜ歴史の年表を覚えなければいけないのか、そんなの読めば分かるだろうと思っていました。実は野球部に入った当初、監督から「お前は(午後)6時に帰れ」と言われたのです。私は未熟児で生まれ、おふくろはお医者さんから「心臓が弱い」と言われていたようで、監督に「心臓が止まってしまう。早く帰らせてほしい」と訴えていたのです。それほど、おふくろは私の体を心配していました。

 《個人ノックを2時間続けて受ける厳しい練習もあった。何度もくじけそうになっても、甲子園出場を信じて、耐え抜いた》

 1年生の時は弱いチームでしたが、2年生の時には「甲子園に行けるのではないか」と思えるほど強いチームになっていました。練習の成果です。甲子園出場をかけた夏の県大会。結果は初戦敗退でした。周囲の人は「どうせ進学校だから、野球で勝てないのは当たり前だ」と思っているに違いない。ですがこの敗戦は、私には本当に骨身にしみました。世の中、結果が全てだということを初めて知りました。結果を出せないと、何を言っても意味がない。これは仕事にも通じることです。それをあの敗戦で痛いほど思い知らされたのです。一生懸命やったけど、負けた。だから仕方ない、という考え方は好きではありません。やり方が悪かった。もっと良い準備をしていれば勝てたはずだ。こんなところで負けてよいのか。負け犬にはならないという気持ちで翌年の甲子園を目指し、練習に打ち込みました。(聞き手 大竹直樹)

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