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野村克也さんを悼む 野村再生工場、ID野球の本質とは

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平成5年11月、ヤクルトがプロ野球日本一になり、ナインに胴上げされる野村克也監督=西武球場
平成5年11月、ヤクルトがプロ野球日本一になり、ナインに胴上げされる野村克也監督=西武球場

 選手としても監督としても歴史に名を残した野村克也さんが亡くなった。1990年代には、「ID野球」を旗印にヤクルト監督として3度の日本一に輝いた。データ重視のID野球は、一般に頭でっかちなイメージがあるようだが、本質は弱者が強者を倒すための準備と考えるとわかりやすい。

 例えば、当時の巨人の斎藤、桑田、槙原の強力な投手3本柱を打ち崩すには、格下の打者はとくに根拠を持ってヤマを張り、打席で勝負する必要があった。「無難、無難に行っては一流投手は打てない。勝負せえ」。そんなことをよく言っていた。

 変化球を打つにはどうすればいいのか。野村さんに聞かれたときの正解は「予測することです」だ。対戦する投手の持ち球、ストライクを取りにくる球は何か、カウント1ストライク2ボール(いまは2-1)の打者有利の場面でどんな球を投げてくるのか、同じ球種を何球まで続けるのか。捕手の配球パターンは…。そして、ここが肝心なのだが、コーナーいっぱいの球ではなく、甘く入ってくる球を狙わせる。こうした積み重ねが、他球団を解雇された選手を再生させた。1997年の巨人との開幕戦で3本塁打した小早川氏の復活劇は、その好例だろう。

 主力選手に対しても厳しく接していたが、わき役への教育にも熱心だった。特に中身のない凡打には手厳しかった。無死1、2塁から内野ゴロや外野フライを生かし、無安打で点を取れるよう、口うるさく「凡打の質」を説いていた。

 采配面では策士の印象が強いが、実際はオーソドックスな戦いが多かったと思う。「奇策は、やるやると見せかけておいてやらない。やらないと思わせておいてたまにやる。だから効くんだよ」

 「見つけ、育て、生かす」が監督としての哲学。適材適所に選手を起用し、戦力的に劣るチームで勝つことに何よりも喜びを感じていた。阪神でうまくいかなかったのは心残りだったろうが、ヤクルトや、優勝こそできなかったものの楽天ではクライマックスシリーズ進出の結果を出した。

 「財を残す下、仕事を残すを中、人を残すを上とす」とよく言っていた。かつては、V9を達成した巨人のOBが多くの球団で指導者となったが、近年は野村さんの薫陶を受けた指導者が数多い。勝負師の面だけでなく、教育者としても一流の人だった。

    (佐藤正弘)

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