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【動画あり】「野村引く野球イコール、ゼロ」プロだけではなく、アマにも心血を注いだ野村さん 佐藤正弘

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野村克也氏=2003年3月、東京ドーム
野村克也氏=2003年3月、東京ドーム

 昭和から平成にかけてのプロ野球を彩った野村克也さんの訃報に接し、大きな喪失感に包まれている。筆者(佐藤)は1993年から産経新聞運動部記者として主にプロ野球を担当し、ヤクルト監督時の野村さんを取材した。

 戦後初の3冠王を獲得した大打者であり、ヤクルトの監督としては「ID野球」(インポータント・データ=データ重視)を掲げて3度の日本一に輝いた名将。独特の野村節を、随分と聞かせてもらった。当時、選手だった愛息の克則氏(現楽天コーチ)の名を挙げて「俺の理想はグラウンドで死ぬこと」とよく冗談を言っていた。「日本シリーズの第7戦、克則がサヨナラホームランを打って日本一。そのままドーンと倒れて死んでしまう。どうや」。照れたような笑みが忘れられない。

 プロ野球監督の野村さんは大変、興味深い取材対象だったが、野村さんの生前を思い出そうとすると、なぜか少年野球や、社会人野球のシダックス(2006年廃部)を指導していた姿が浮かんでくる。90年代、野村さんは港東ムース(ムース=ヘラジカ=は野村さんの南海時代の愛称。野村さんの、のっそりとした動きから外国人選手がつけた、と本人から聞いた)という少年野球チームを教えており、シーズンオフにはよく神宮球場に隣接する室内練習場で子供たちを指導していた。

 普段はサッチーの愛称で親しまれた沙知代夫人の尻に敷かれている印象の野村さんだったが、ある日、ものすごいけんまくで沙知代さんを怒鳴りつける場面を目撃した。野村さんが中学生相手にバッティングを教えている際、沙知代さんが「わかったか!」といった調子で合いの手を入れるや、「うるせえ! 俺が教えているんだ! お前は黙ってろ!」。あまりの迫力に、沙知代さんはそれっきり黙りこくり、じっと野村さんの指導を見守った。このあたりの呼吸もおしどり夫婦の秘訣(ひけつ)だったのだろう。

 子供たちが相手であっても、指導は実戦主義の野村さんらしかった。ブルペンで捕手の後ろに陣取り、ピッチャーに向かって「1点リードの最終回、ツーアウト満塁、カウント2-3(現在の3-2)。外角低めにストレートを投げてみい!」。野村さんは投球の原点というアウトローに投げるよう命じた。右ピッチャーはビシッと右打者の外角低めにストレートを決めた。これで投球練習は終わりだと思いきや、「ナイスボール! でも、いまのはファウルや。もう1球来い!」と野村さん。子供相手にそこまでやるの、と笑ってしまったが、試合では同じことが起こりえる。感心したことをよく覚えている。

 イタリアの高級ブランド、ヴェルサーチの服を着こなし、車はベントレーやベンツ。美食家でもあったが、練習の合間には、ジャージー姿で「ワシは育ちが貧乏だからこんなものが好きなんや」と、子供たちの保護者が差し入れた太巻きをおいしそうにほおばっていた。

 シダックスの監督時代は、練習前や練習中にコンビニエンスストアで買った好物の「冷やしとろろそば」をすすっていた。名将とうたわれた大監督が朝からコンビニ飯とは、と初めて目にしたときは、何とも言えない気持ちになったが、すぐに晴れた。練習する選手たちに目を向け、「この子たちはうまくなろうとして、俺の話を真剣に聞いている。絶対に間違ったことは教えられない」といつになくまじめな顔で話してくれた。阪神監督を不本意な形で終え、野村さんに反発した選手もいた。そうした経緯からか、愛情深くシダックスの選手たちを指導していた。情熱は武田勝(元日本ハム)、野間口(元巨人)両氏のプロ入りなどに結実した。プロでもアマでも、選手の特長を「見つけ、育て、生かす」ことが得意で、大好きな監督だった。

 「野球はアタマでするものだ」「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」「無形の力」。野村さんの野球観を表した言葉は多々あるが、筆者が一番好きな野村さんの言葉は「野村引く野球イコールゼロ」だ。それほど野球を愛し、野球の神様がいるのならば、愛されていたと思う。プロ野球のキャンプが中盤に入り、本格的な球春を迎えようとする季節。皮肉とユーモアにあふれ、野球の本質を突く野村さんの言葉をもっと、もっと聞きたかった。

 (産経デジタル・コンテンツプロデュース室長 佐藤正弘)

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