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野村克也氏評伝 阪神のチーム改革を断行「死ぬまで野球がしたい」 大阪編集局特別記者・植村徹也

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平成10年10月、阪神の監督就任会見で握手する野村克也さん。左は久万俊二郎オーナー、右は高田順弘球団社長=大阪市内のホテル
平成10年10月、阪神の監督就任会見で握手する野村克也さん。左は久万俊二郎オーナー、右は高田順弘球団社長=大阪市内のホテル

 「ワシが阪神の監督に? 何を寝ぼけたことを言うとるんや。夢でも見とんのか」

 「ワシが阪神…。ワシが阪神に行ったらワシの野球人生はボロボロになるやろ。関西は怖い」

 「阪神はワシに誰を育ててほしいのや?」

 平成10年夏。野村克也さんに阪神監督就任を水面下でお願いして1カ月以上が経過していた。最初は取り付く島もない。徐々に言葉のトーンに変化はあったものの、受諾の雰囲気はなかった。

 それが劇的に変わったのは、8月23日の夜のこと。当時、ヤクルトの監督だった野村さんは大阪ドーム(現京セラドーム大阪)での阪神戦を終えると一度、大阪駅前の宿舎に帰り、その後、兵庫県芦屋市の村山実氏宅に向かった。前日の22日に逝去したミスタータイガースに最後の別れを告げるためだった。

 「人間は死んだらああなるのか…。ワシは死ぬまで野球がしたい。ベンチに座っていて、そのままスーッと眠るように死にたい。誰かが気がついて“監督死んでるぞ”というような最期を迎えたいんや。(阪神監督を)受けるわ」

 ヤクルト監督の退任は既定路線で、それでも野球の現場に固執するには阪神監督を受諾するしかなかったのかもしれないが、やっと山は動いた。

 ヤクルトのチーム宿舎近くの路上で「ノムさんが受けると言うたぞ」と一報を受けた。すぐに当時の久万俊二郎オーナーの自宅に電話した。

 「あなた、野村さんを連れてこれますか」と同オーナーに頼まれてからの苦しい日々。久万さんは大いに喜び、「さて初交渉はやっぱり私らが東京に出向かないかんでしょうな」と語った。「これで、私が提唱した土台造りの成功サンプルがやっと作れます」と感激していた。

 表面的な初交渉は10月だった。場所は東京の赤坂プリンスホテル(平成23年閉鎖)。裏玄関に久万さんらを乗せた黒塗りの高級車が滑り込み、閃光のような無数のフラッシュがたかれた。駐車場で見ていた私の両手はブルブルと震えた。達成感と歴史を変えた感激だったのかもしれない。

 しかし、それからの3年間は野村克也VS阪神の旧体質の暗闘の歴史だった。沙知代夫人の脱税問題で退任という寂しい最後。「ワシはボロボロになる」と話していたあの頃を思い出し、心の中で両手を合わせた。

 それでも野村監督による阪神のチーム改革を見逃さなかった人がいた。スカウト刷新などの球団人事や選手教育などを観察していた人こそ、星野仙一さんだった。「ノムさんが阪神を耕した」と言ったこともある。だからこそ「阪神の監督をやってもええぞ」と水面下で伝えてきたのだ。

 久万俊二郎さんが9年前に逝き、星野仙一さんも2年前に亡くなった。そして今回の野村克也さんの訃報…。こみ上げてくる寂しさは表現の仕方すら思いつかず、茫然(ぼうぜん)とする自分がいる。(特別記者 植村徹也)

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