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【大場一央の古義解~言葉で紡ぐ日本】徳川斉昭(なりあき)学問と事業の一致企図

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 弘道とは何ぞ。人、よく道を弘(ひろ)むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾(しゅゆ)も離るべからざる者なり『弘道館記』

 藤田幽谷の弟子である会沢正志斎が「国体論」を提唱し、政治学としての水戸学を確立しつつある頃、第7代水戸藩主、徳川治紀(はるとし)の第三子、斉昭(なりあき)=1800~1860=が誕生した。

 長兄がいることから藩主となる見込みはなく、「予備の男子」として扱われた斉昭は、部屋住みとして極めて質素で無為な人生を決定づけられていた。ただ、9歳で侍読につけられた会沢に導かれ、学問にのめりこむ。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)が八百万(やおよろず)の神々と協力して国造りをはじめたことを出発点として、天照大神の子孫たる天皇と、八百万の神々の子孫である日本国民が一致協力して日本を造っていく-という構図が、会沢による「国体論」の特徴だ。

 八百万の神々は天照大神に忠誠を尽くした。後世の日本国民が、そんな八百万の神々をモデルに行動することは、天皇に対して忠誠を尽くすことでもあり、祖先の仕事を引き継ぐ孝行ともなる。これこそ「忠孝一如」という考え方であり、近代日本でも好まれた「忠孝」の二文字は、会沢によって、スローガンとして確立された。

 また、会沢は皆が一足飛びに天皇に対して忠誠を尽くすべく行動するのは、かえって身の程を知らない僭越であると断じた。天皇が任命した将軍、将軍が封じた諸大名、大名に仕える武士、そして生産を担う庶民との社会構造のもと、皆がそれぞれに役割を分担し、一生懸命に務め、生活を作り上げることこそ本当の忠誠であり親孝行だとする。

 このような会沢の思想は、神話とつながることで、出自への確信と、仕事に対する使命感を持たせ、結束を促し、幕末から昭和の日本人に多大な影響を及ぼした。

 ただ、斉昭はそうした社会的役割から疎外された「部屋住み」であった。にも関わらず、決してくじけることなく学び続けた。そんな斉昭が30歳のとき、兄であり、第8代藩主の斉脩が亡くなり、遺命により第9代藩主に就任した。偶然世に出ることとなった斉昭は会沢から学んだことをもとに、大規模な改革を強力に推進する。

 当時、藩内は門閥派、穏健改革派、急進改革派といくつかの派閥が形成されていたが、それらから分け隔てなく優秀なブレーンを召集した。いわば挙国一致体制を作ったのだ。このときに登用された戸田忠太夫(ちゅうだゆう)、藤田東湖(とうこ)、武田耕雲斎(こううんさい)、青山拙齋(せっさい)らは、斉昭の命令を忠実に実現するため奔走する。

 こうして藩政を掌握すると、土地制度を改革し、税収の効率化に着手。また、藩士を都市から地方へと移住させ、いわば「地方分権」のような形できめ細やかな行政の実現を進めた。

 内政を整えつつ、海外事情も積極的に収集。技術導入による重工業育成構想や、欧州を席巻したフランス皇帝、ナポレオンの戦術を分析した国民皆兵制度による近代軍制の確立など、多岐にわたり研究させた。

 その斉昭が渾身の事業として打ち出したのが藩校「弘道館」の創設である。

 斉昭は学問と事業の一致を企図した。藩政の拠点を弘道館に移した上で教授陣を閣僚に加え、政策立案と学校教育が連携するようにした。学生には神道、儒教を軸としながら江戸時代に華開いた全ての学派を網羅的に学ばせ、武術や兵器操練も行い、成績優秀者は人事で抜擢した。

 建学の精神を示した『弘道館記』で、斉昭はこう強調する。

 「弘道とは何か。道を弘めるのである。道とは何か。天地と同じく絶対的な法則であり、人々が一瞬も離れて生きることができないものである」

 ここでの道とは、会沢が提唱した「国体」を指す。

 皆が役割を分担することで個人を超えた生きがいを持ち、皆でつむぐ日本の歴史を以て、思想的強さを確立し、現実でも西洋の物質文明を使いこなす強さを持つ。そうやって迫りくる西欧列強に断固対抗する、という宣言だ。

 かつて「部屋住み」として何ら役割を与えられず、期待されず、疎外されていた斉昭だが、幕末には「天下の副将軍立つ!」と日本中から敬仰され、炎のように突き進む生き方から「烈公」と諡(おくりな)された。その姿は不遇に屈しない意志の力こそ、水戸学の神髄であることを示している。

     ◇

【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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