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【大場一央の古義解~言葉で紡ぐ日本】藤田幽谷 あらゆる人々に「らしさ」要求

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 政をなす者、豈(あ)に名を正すを以て迂(う)となすべけんや『正名論』

 後期水戸学の先駆者、藤田幽谷(1774~1826)は、水戸学の中興の祖と言われる立原翠軒(すいけん)を師に持つ。翠軒は徳川光圀以後に停滞していた『大日本史』を復活させ、荻生徂徠の古文辞学を水戸に持ち込み、水戸学に政治色をつけた。

 また、翠軒は時の老中、松平定信に「天下の三大患」を説いた。朝鮮通信使、一向宗(浄土真宗)、そしてロシアを指す。つまりアジア外交、新興宗教、西洋侵略の3つが将来的な日本のアキレス腱になると指摘し、早急な対策を説いた議論だ。

 一方、同時代人には何もせず、ひたすら現状維持を主張した国学者、本居宣長らがいたが、定信は翠軒を支持し、以後、水戸藩はロシアの南下政策を筆頭とした西洋侵略に意識を向けていくこととなる。

 水戸の古着商の子として生まれた幽谷は、10歳で翠軒に入門、次第に頭角をあらわした。翠軒に推挙され、大日本史を編纂する彰考館に勤務、士分を得る。また、柴野栗山(りつざん)、太田錦城(きんじょう)ら当時の名高い朱子学者、考証学者に交わる機会を得て、急速に学識を深めていった。

 翠軒の薫陶を受けた幽谷は学問と事業の一致を志向し政治改革を強く望んだ。

 24歳で水戸藩主、徳川治保に改革の上書を提出した。都市に人の流入が止まらず、その都市は諸大名を筆頭に奢侈に流れて濫費が止まらないことをいさめ、今これを止めて強靱な地方再生を行わなければ、天下に危機が到来するというものだったが、治保に嫌気され、処分を受ける。

 同時期に、『大日本史』の編集方針について、天皇を中心とした国史がはっきりと分かるようにし、日本人の精神的な結束を高めるべきだ、との主張がいれられず、翠軒とも対立し、ついには絶交する。

 幽谷は、来るべき西洋列強の侵略に備え、迎え撃つ日本の体勢を整えようとした。ただ、強い危機感があまりに急進的な現体制批判となり、翠軒のような穏健な改革派とすら対立してしまったのだ。

 その後、私塾「青藍舎」を開いた幽谷は、会沢正志斎や豊田天功らを育てる。彼らはその後、水戸藩の行政改革を推進する傍ら、世界に対する日本のありよう、すなわち「国体論」を提示し、日本全国の輿論を牽引していく。また、次男の東湖は幽谷の「尊王攘夷」思想をさらに先鋭化させ、過激な攘夷運動の教祖的存在になっていった。

 翠軒の失脚に伴い、彰考館総裁に就任した幽谷は、保守的な門閥派や穏健改革路線の立原派と対立しつつも、中間派の青山延于などとは協調して学術事業を推進。門弟育成と並行し、藩政改革を試みた。

 その施策は農村共同体を中心とした地方強靱化が柱だったが、視線の先には確固たる家族、共同体、国家を基盤とした、日本の団結が見据えられていた。

 都市化によって個人主義化し、自我を通すことだけしか考えないばらばらの国民をまとめるには、外国との接触がはじまってからでは遅い。

 幽谷が著した『正名論』では、全ての人がその役割を自覚し、「らしさ」を身につけることを要求した。

 天皇は日本を統べる王者であり、幕府は朝廷に代わって政務を代行する覇者であり、大名は地方をあずかる諸侯であり、武士は民の模範となり、民は生産する。そうしてそれぞれの「名前」にふさわしい行いをすれば、お互いが役割を果たしてみんなで日本を造っているという共同意識が生まれ、国家の機能は最大限まで合理化される。

 「政治とはまず名前にふさわしい『らしさ』を提示することであり、これをまどろっこしいとしているようでは、必ず、なあなあで、無責任な社会ができあがり破綻するのである」。

 幽谷の理想は冒頭に引いたこの言葉に込められる。

 そして、この理想は「天皇を中心とする道徳的な統一国家『大日本帝国』」というモチーフを、昭和20年まで示し続ける力になるのである。

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【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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